【2017年9月8日(前泊)・9日~10日(土・日) 2泊2日】
大震災と原発事故から約6年半が過ぎ、今年3月31日と4月1日に多くの場所で避難指示が解除されました。福島は今どうなっているのか。県内6市町村をまわり、報道・医療・行政・農産物・教育・仮設に暮らす被災者・原発訴訟の原告…、9人の方々から直接お話を伺いました。参加者は21名。信濃毎日新聞とタウン情報が同行取材し、後日各紙に記事が掲載されました。
福島で最初に訪れたのは、塾長の知人が営む福島市内の居酒屋さん「あめりけん」でした。福島のソウルフードを福島の美味しい日本酒と共にいただき、前夜祭を兼ねた夕食交流会でスタートしました。
店主の佐藤友裕さんも被災者で、生まれたばかりの赤ちゃんと奥さんは県外に、ご本人は福島市に避難してきたそうです。普通のサラリーマンだった佐藤さんが居酒屋の店主になるまでの話や、結局離婚することになってしまったが、今は互いに伴侶を見つけて幸せに暮らしている。転職も離婚もきっかけは原発事故だったけれど、多くの人たちとの新しい出会いがあって今の自分がある。友達を我が家に迎えるような気持ちでお店をやっている。と語ってくれました。
まずは福島県全体の様子を伺おうと福島民報社では編集局次長の鎌田喜之さんを訪ねました。鎌田さんから、東日本大震災から6年半経過した福島の現状を、被害状況・原発・行政など多方面から伺いました。その上で、県民は福島第二原発も廃炉をと訴えているのに、国も東電も明確な姿勢を示していないと聞き、福島の皆さんの憤りをリアルに感じる思いがしました。また、マグニチュード9.0という大地震の時のご自身の様子、家族との再会、避難生活についても語られ、当時の生々しい様子が伝わりました。
わたり病院では、齋藤紀医師のお話。「ここで生きることを決めたから、ここにどんなリスクがあるのか厳密に調べた」と、チェルノブイリとの比較した健康被害の状況や、妊産婦に関する調査のほか、震災以降の岩手・宮城・福島の自殺者の推移、農地や農家の減少状況など、お話は多岐にわたりました。
若いお母さんの出産の不安については、「未熟児などの発生率は全国平均以内」と放射線による心配のないことを伝えている。岩手・宮城では年々自殺率が減少しているのに対し福島は逆に増加している現象がみられた、という話が特に印象に残りました。宮城県出身の齋藤先生ですが「わが福島は…」と話す先生の言葉からは、福島に寄せる思いを感じました。
全村避難指示が今年3月31日に解除された飯舘村の復興拠点として8月にオープンした施設です。真新しい建物の周りで造成工事が盛んに行われていて、復興は始まったばかり…といった雰囲気でした。
飯舘村役場で菅野典雄村長は、放射能のリスクと生活の変化のリスクバランスを取りながら村民の避難を続けてきた。避難解除になった今、住民はかつての村民の6%ほどで、多くは避難先から村に通っているのが現状。国や東電との交渉については、被害者VS加害者ではなく柔軟な考え方が大事。と言い、積極的に復興の姿を発信し、訪ねたくなる村、忘れられない村にしていきたいと、これからの村作りの意欲を語りました。
震災前から飯舘村流スローライフ“までいライフ” を村の基本理念としてきた。「もっと便利に、もっと豊かに」と進んできた結果、50基以上の原発ができ、事故が起きた。我々は暮らし方を見つめなおす時ではないかと話す菅野村長の考え方は、信州自遊塾の理念と重なり共感しました。
相馬市に向かう山越えの道のり。山村の集落は、除染が済んでいるせいか荒れた雰囲気はない。帰還者が暮らしているのか、時々車が停まっている家が見えた。森がすぐ近くに迫る家々は、獣が住み着くには格好の場所に思え、獣の被害で帰還を諦めたという人たちの話を実感した。
飯舘村だけでフレコンパックは230万個。国が建てた村の焼却施設で3割を焼却、7割は国の中間貯蔵施設に運ばれると言うが、具体的なことがどれだけ決まっているのだろうか。
相馬市に近づくと、黄金色に色づいた田んぼが見え始めてきて、人間の営みが感じられる景色に気持ちがホッとした。
「野馬土」では、代表理事の三浦広志さんから、農産物の放射線検査、農地の再生、福島第一原発の水蒸気爆発の危険はまだ残っていること、国や東電との交渉の中での裏話などを伺いました。重いテーマの話にもかかわらず、やけに明るく楽しそうに話す姿が印象的でした。
元々、南相馬市の小高地区で農業を営んでいた三浦さんは、「浜通り農民連」の副会長として国や東電と粘り強く交渉し、福島の農業再生のためには米の全袋検査、農産物の全検査が欠かせないと訴え、検査体制を実現させました。また、荒れ地になってしまった農地を元の田んぼに戻すための財源に、太陽光発電の事業にも取り組んでいる。10年間はこんなことばかりになると思うが、61歳からは“悠々自適な農業ライフ”に戻りたいと抱負を語り、「みなさんは信州の農業を支えながら、福島のことも応援していただければありがたい」と農業愛に溢れる言葉で結びました。
お話の後、併設されている農産物直売所で買い物も楽しみました。(お米は売り切れでした)
野馬土から15分ほどの場所にある松川浦の「亀屋旅館」に到着。入江にある松川浦は外海に面した崖が防波堤になり、津波の被害は他の地域に比べて少なかったそうです。
宿では、震災当時は飯舘村の小学校校長だった(今は宮城県の県境にある新地町小学校校長)森仁市さんからお話をうかがいました。いかにも優しい校長先生といった温和な雰囲気の森先生は、スライドを見せながら新地町の紹介、新地町小学校の取り組み、三校あった飯舘村の小学校が避難先でひとつの小学校になり、校長先生が3人もいる状態が続いた時の苦労話などを話してくれました。その後も一緒に夕食を囲み、お酒も入り楽しい時間を過ごしました。
福島第一原発のある双葉町の隣町、浪江町請戸地区を、漁師で浪江町町会議員の高野武さんの案内で見学しました。最初に訪れたのは高台に新しくできた墓地でした。「ここまで逃げて来られた人は助かった。車が渋滞していて、車ごと津波に流された人も多かった」と、ご自身もこの高台に避難した高野さんが当時目の当たりにした様子を語りました。
バスは福島第一原発が見える請戸港を回り、アスファルトを割って草が生える廃墟となった商店街を通って、町の商工会館へ。
請戸地区でメガネ屋さんを営んでいた浪江町商工会会長・まちづくりNPO新町なみえ理事の原田雄一さんから6年半の歩みと避難解除した町の現状を伺いました。
震災当時の避難の混乱、その度に地域の人たちと離れ離れになってしまった。壊されてしまった地域のつながりを取り戻すべく、避難先の二本松でお祭りや恒例行事を続けてきたこと、帰還者が見込めないこの地区での商売の再建を諦めたことなどを話されました。
商工会の先頭に立ってきた方が帰還を諦めざるを得なくなった浪江町の現状を知り、町の再建は極めて厳しいのではないかと感じました。
バスは浜通りの6号線を南下し、福島第一原発のある双葉町・大熊町を通過。その時車内の線量計は4.0μSv/hという驚きの数値に(大熊町にて)。国の示す放射線の最大許容値は0.23μSv/h、被害の深刻さを実感。大熊町と接する富岡町東北部の避難指示が続く「夜の森地区」で下車。ゲートの向こうに人が住めない家々が続く。草むらや落ち葉が積もる場所の線量が特に高かった。
新駅舎建設中の富岡駅前を通過。駅前では、アパートや店舗など多くの建物が建築中だった。(避難区域の現状はこちら)
昼食は、富岡町の生活復興拠点として今年3月にオープンしたショッピングモール「さくらモールとみおか」にて。お客の多くが復興関連の作業員らしく、日曜なのに食堂のシャッターは閉まっていた。とは言え、フードコートのテーブルはほぼ満席で、普通に人が暮らす空気も感じられた。
ツアー最後の訪問先の楢葉町の宝鏡寺住職早川篤雄さんは、富岡町と楢葉町をまたがる福島第二原発の設置許可をめぐって、1975年から反対訴訟の原告団長として40年以上反原発を訴えてきた。2年前に避難指示が解除された町の人口は地震前の約11%。住人は、廃炉作業労働者の移住者と高齢者が中心。チェルノブイリ原発事故後、「原発大事故、次は日本」と訴えてきたが、それが現実のものとなってしまった。原発がなくならない限り、第2の福島は生まれる。「原発大事故、次も日本」は、あってはならないと、強く語りました。
宝鏡寺は30代続く歴史のあるお寺。町民たちと続けてきた数々の行事は消え、代々受け継いできた田んぼのほとんどが、フレコンパックの仮置き場になっている。幸いお孫さんが、条件付きで後継を考えてくれているのが救いになっていると、次の世代に期待するお話も聞かせてくれました。
今回の福島ツアーは、“今だ楽観できる状況にない”という現実を実感する機会になりしました。荒れ地となった農地と無数のフレコンパックの山が延々と続く景色、今なお自殺者が増加していること、復興へのジレンマ、廃炉に伴う危険性など…。そんな状況の中で、それぞれの分野の先頭に立ち、次々と変化していく問題に前向きに立ち向かい、再建への道を探っておられる方々にお会いでき、私たちの方が励まされた思いがしました。皆さんからは、この場所で生きていく覚悟と、福島を愛する強い思いが伝わってきました。
今回の福島訪問を終え、多くの人に原発事故後の現状を伝え、自分のできるところから福島を応援していこうという気持ちを強くしました。また、福島のお米はとても美味しいと知ったのも収穫のひとつでした。
【まとめ・感想 事務局くぼた】
福島民報社は、福島県下最大の発行部数を持つ新聞社。
1892年(明治25年)に創刊された。今年創刊125周年を迎えた。共同通信社、時事通信社の双方に加盟しているが、基本的に、1面と社会面のトップ記事はともに通信社配信記事に頼らず、自社記事の掲載率が他県の県紙より高いそうだ。
原発事故報道では2012年度の日本新聞協会賞(編集「企画部門)を受賞。2014年度にも編集「企画」部門で「『原発事故関連死』不条理の連鎖」と題したキャンペーン、経営・業務部門で「『復興大使』派遣事業」の2部門で新聞協会賞を受けた。
今回、話をしてくれる鎌田喜之編集局次長は、2012~14年ころ文化部長時代に私が取材を受けたり、逆に取材をして情報をもらったりするなどして、親しくなった人である。
鎌田氏は浪江町出身、妻は南相馬市出身、鎌田氏の両親は車で福島市の鎌田氏の家に避難。自宅は原発事故後の一時期14人が住み、断水停電などもあり、鎌田氏自身が被災者だった。
福島は、震災による直接死は宮城(9500人)、岩手(4600人)より少ないが原発事故による避難の長期化により、関連死が直接死を大きく上回っている。この関連死は今も続いているが、次第に関連死であるかどうかがあいまいになりつつある。鎌田氏の同級生の例などの実例も含めて話された。
山形、新潟、東京、埼玉が多いが、北海道から沖縄まですべての都道府県に避難者がいた。ピークは平成24年(2012)の164218人(会津若松市の人口とほぼ同数)。長野県は674人。
最大で16782戸(2013)
入居者のピークは平成25年(2012)1月の321886人。今年7月現在でも6210人が仮設住宅での生活を余儀なくされている。これらの人たちの多くは高齢者などの生活弱者。
政府は今年4月帰還困難区域を除く、ほとんどの避難指示準備区域、居住制限区域で避難指示を解除。3分の1に減少したが、それでも山手線内の5.3倍、琵琶湖の約半分が帰還できない土地。
避難先で6年半たつと、多くの人はそこに生活基盤ができている。避難指示を解除された土地に、水道・電気、道路などのインフラは整備されても、商店、医療機関、福祉施設ができなければ住民は戻らない。
学校が最大の課題。多くの児童が避難先の学校になじんでおり、元の学校に通学させると考える家庭は極めて少ない。(浪江町 検討中も含め11世帯4.1% 富岡町 9世帯1.4%)
住民分断も大きな課題。賠償金の違いによる分断。南相馬などでは津波被害の人も、原発被害の人も同じ仮設住宅に住む。
仮設住宅は当初プレハブ長屋のようなものだった。3世代が3部屋に分かれる。
核燃料(燃料デブリ)の取り出しが課題。当初、国は取り出したデブリは県外へといっていたが、最終処分場は決まっていない。増え続ける汚染水問題。除染で出た廃棄物のフレコンパックの中間貯蔵施設の問題がある。中間貯蔵施設の用地取得率は34.6%(大熊、富岡町)
廃棄物、デブリの先行きは不透明。
新米の全袋検査を行い、3年連続で基準値超過はゼロ。
漁業も2012年から試験操業をはじめ、2016年には32種の出荷制限が解除。出荷制限が続いている種もあるが、減ってきている。
食品の放射性物質が検出されず、農作物の安全が確保されているにもかかわらず、そのことを知っている人は少ない(ある調査では県内50%・県外17%)。依然として福島県産の食品を避ける傾向が見られ、とくに西日本はその傾向が強い。風評被害が課題。
廃炉作業は30~40年。原発を経験した記者が少なくなる中で、国や東電が責任を果たすかを見届け、読者に伝え続けていくことが重要。これは地方紙としての宿命であり、広島、長崎の地方紙との交流も行っている。
中央のマスコミは危険なニュースだけを報道しがち。状況が好転した安心ニュースを伝えてほしい。
概要レポートへ戻る【リポート 松本 猛 塾長】
齋藤先生は、1947年宮城県生まれで福島県立医科大学卒。広島大学原爆放射能医学研究所で内科・臨床血液学の研究に従事された 全日本民医連被曝問題委員会の委員も務められています。 2009年から福島市内のわたり病院に内科医師として勤務し、震災直後から住民の健康相談等に多数応じ行政からの依頼もふくめ現在まで講演を続けています。チェルノブイリで子ども達への医療活動も行われています。
渡利(わたり)地区は福島市の中では原発に近く、福島市内でも比較的放射線量が高い地域。「原発事故直後は医療者も避難するという事態もあった。しかし、私たちは“この地で生きていく”と決めたので、科学的に正しい情報を発信している」と、講演活動などに取り組む姿勢を語られました。
福島とチェルノブイリとの違いは、被ばく線量の違い。チェルノブイリでは甲状腺被ばく線量が中央値で数百mSVだった。一方福島では最大で約30mSVとみられている。チェルノブイリの事故では放射能汚染の情報がほとんど知らされず、住民が汚染ミルクなどを摂り続けたことによる内部被ばくが主な原因。被ばく線量がけた違いであり福島と同一視できない。福島での発見率に地域差も確認されていない。
福島でのエコー検査による子供の甲状腺がんの発見率は、10万人あたり33人(0.033%)。無症状者のエコー検査の発見率は有症状者の臨床レベルの発見率の約200倍(成人)、子どもでもそれを考慮すると通常の発生率と変わらないとみられ、多発とは言えない。
K6という精神健康状態のテストによる抑うつ者の率は、通常3%程度だが、福島の避難者は14.6%(平成23年)と高い。(岩手県は6.2%)自殺率も岩手・宮城の倍以上である。
被ばくによる直接的な害よりずっと大きいのが、家族・家・土地・生業・コミュニティ・未来の喪失など社会的、身体的、精神的な被害。また、被災者のなかでも報道では見えてこない格差があり、仮設住宅での高齢者の孤独死も深刻。
そのような症例は、耳鼻科からの報告や知り合いの小児科においても見られていない。医学的には被ばくによるものとは言えない。鼻の血管に放射性物質付着で異常が出るなら、目などにも症状が出るはずだが、そのような症例は増えていない。
避難者が、避難区域が解除されても戻らない理由は、原発の安全性、医療・介護の体制、仕事、避難先での生活基盤確立など複合的。帰還後の生活不安があり、放射線量だけの問題ではないことがわかった。
福島では、事故後4年で避難者の2%を超えた。もし浜岡原発で事故が起きると、単純に考えれば、推計避難者は60万人で、その2%、1万2千人が原発事故関連死と推計することができる。過密人口のただ中で起きる原発事故に関し、そもそも避難計画は成り立ちづらい。
事故の後、㎏あたり玄米で630ベクレルの放射能が検出されたが、除染をはじめとする農業者のさまざまな努力で、今は25ベクレル以下になり、全袋で基準値(100ベクレル)を下回っている。
概要レポートへ戻る【リポート 事務局松尾】
福島第一原子力発電所から北西に40~50㎞ほどの所に位置する標高500mほどの山村。2011.3.11の登録人口は6509人。村民の大部分が牛3000頭(飯館牛)を飼い、畜産と兼業農家を営んでいた。地震による被害はほとんどなかったものの、原発から飛来した高濃度の放射性物質で村は汚染され、4月22日、政府は飯舘村全体を計画的避難指示区域に指定するに至った。
菅野典雄さんは、帯広畜産大学草地学科を卒業し酪農を営んでいた。平成8年に飯舘村村長に初当選。2016年10月、避難解除の受け入れの是非を問う村長選が12年ぶりに行われ6選目を果たした。原発事故後の避難対応、国や東電に対する対応などには賛否が分かれている。
放射能のリスクと、生活の変化のリスクのバランスを取りながら、村民の避難を続けてきた。
直ちに避難をという国に対し、室内なら20ミリシーベルト以下だからと、村の企業を存続させ、二次避難(仮設住宅)の時には、村民の90%が村から1時間ほどの場所で暮らせるように調整した。元のコミニュティをある程度残し、働く場を確保し、避難先から通勤することができた。
特別養護老人ホームの入居者は、住み慣れた土地を離れるストレスの方が勝ると判断し、村の施設を残したと、6年半の村政を振り返った。
3月31日に一部地域を覗いて避難解除になった今の状況は、6000人の村民の内、帰還者は400人ほど。多くの村民は避難先から村に通っている。本来なら村には500人超の小中学生がいるはずだった。仮設の小中学校に現在130人ほどが通っているが、その内50人ほどが村の学校に通うことを希望、40人ほどが迷っている状態。若い人と子どもが戻らないのが現状。
物事にはプラスとマイナスの両面がある。賠償金で働く意欲を失っている人が大勢いる。賠償金を生活支援制度に変えて働く意欲が出る政策に、補助金の使い道についても国に対して様々な提案をしている。通常の災害の場合帰還率は5~6割と聞くが、飯舘村では1500人戻ればいいところではないか。農地の復興や雇用の創出など、かなりの時間が掛かるが、飯舘村に住みたいと思える政策を進めていくしかない。
21世紀はバランスの時代、柔軟な考え方が大事と、村政の進め方について語られました。
震災前から“までいライフ”を村の基本理念としてきた。“までい”とは、「丁寧に」「じっくりと」「手間暇惜しまず」などの意味で使われる当地の方言。大量生産・大量消費・大量廃棄の時代から、暮らし方を見つめなおす時代ではないか。近所とのお互い様のお付き合い。自助・共助・公助、まず自助から始めていく精神が大切。
「もっと便利に、もっと豊かに」と進んできた結果、50基以上の原発ができ、原発事故が起きた。ほんの少しでも方向が変わってくれればと願うが、今のところその兆候は見えない。
全村避難が解除された日、「ただいま、ふるさと」と題した新聞広告を出した。震災も原発事故も忘れてはならないが、私たちは「飯舘村を忘れないで」とは言わない。自分たちだってよその災害を忘れてしまう。むしろ積極的に復興の姿を発信し、訪ねたくなる村、忘れられない村にしていきたいと、これからの村作りの意欲を語られました。
概要レポートへ戻る【リポート 事務局くぼた】
福島県南相馬市の農家。みうらファミリー農園代表。福島第一原発の炉心から11kmの地点にある5haの農地で専業農家を営み、無農薬・減農薬の米や野菜などを作っていた。
学校を卒業した息子さんと農業を始めた矢先に東日本大震災被災。壊滅的な被害を受けながらも、地域の農業の復興をめざして、直後から国・東電・自治体等との交渉を始める。また、NPO法人「野馬土」を設立、放射能測定・原発20㎞圏内ツアー・再生可能エネルギー・産直品の販売・イベント開催など多彩な活動を展開している。
「笑って戦う農民」と呼ばれる「野馬土」の代表理事三浦広志さんは、「原発の放射性物質は200年経てば人間が死なずに取り出せる状態になる。原発とは200年付き合っていかなければならない。住めなくなってしまった地域もあるが、ここに残った人たちの生活を明るく楽しく安全に。農業もやり、原発の危険も抑えて…そのための道筋を作りたい」と、粘り強く国や自治体、東京電力との交渉を続けて実現できたこと、今の福島の現実、これからの展望を明るく語ってくださいました。
原発事故直後から「ふくしまの恵み安全対策協議会」に参加し、米の全袋検査をやったからといって福島の農産物が売れる保証はないが、やらなかったら福島県の農業が自信をもって再生していく道筋はできない。と粘り強く交渉し実現した。現在県内で米の放射能測定器は200台が稼働し、毎年30㎏の袋1000万袋以上を測定している。
100ベクレル越えの検査の結果:初年度(2012年)は1170万袋中に72袋・13年28袋・14年2袋・以後未検出(25ベクレル以下)
全袋検査をしたことで、セシウム濃度が高いエリアが分かり、塩化カリウムを散布する対策ができた。(カリウムが不足すると代わりにセシウムを吸収する性質がある)。関東のお米との比較では、セシウム濃度が一番低かったのは福島県産だった。安心して食べ、安心して出荷できる体制ができている。
野菜くだものなどの放射線検査も漏れの無いしくみを作っている。
県のサンプル検査・スーパーや直売所での検査・自家消費などは公民館に測定器がある。高い数値が出るのは山のキノコや山菜、イノシシの肉など野生のもの。
1. 相馬や新地町など原発から遠い地域は復興も進んでいるが、南相馬の小高地区を含む20㎞圏内の避難指示区域だった所は手つかずの状態。三浦さんの出身地の南相馬小高の井田川地区では、200haの農地が荒れた状態。荒れ地を田んぼに戻す財源とエネルギーの地産地消を推進すべく、50haの農地に太陽光パネルを設置。平成31年から5年間をかけて150haの農地を整備し、米つくりを進めていく計画。
2. 資源エネ庁の研究者に聞くと、溶融した核燃料(デブリ)の取り出し作業に伴う再臨界の危険性はゼロではないと言う。農地を復興することで絶対に爆発させないという圧力にもなる。まだ水素爆発の危険性が残っているのに5㎞圏内まで避難指示が解除されている。当初、避難解除の条件は①除染の完了②ライフラインの復旧③田畑で元通り農業ができる状態になっていることだった。オリンピックなど対外的な要因でいかにも復興が進んでいるイメージ作りのために、住宅周辺20mの除染完了だけで国は避難解除した。福島県民の年間放射能許容値は、今も緊急事態という理由で、20㎜㏜/年(日本全体では自然放射線量2.1+1.0㎜㏜/年の計3.1㎜㏜/年)のままだという。
概要レポートへ戻る【リポート 事務局くぼた】
線量が低く避難指示解除地域になった浪江町請戸地区に我々のバスは入った。1台のワゴン車が草叢に錆びかかってまだ放置されている。津波が襲った建物の瓦礫は高い囲いの中に片づけられていた。辺り一面は少数の作業人を除けば無人の地。被災から6年目。バスは浪江町町会議員の高野武さんの案内で被災者の名前を刻んだ慰霊碑と真新しい墓の並ぶ高台に着いた。
農地などがすっかり夏草に覆われている請戸地区が見渡せる。残っているのは廃墟の請戸小学校、家主の思いで取り壊されない柱だけの二階家が1・2軒だけ。その向こうの浜辺には津波禍をかいくぐった数本の松。福島第一原発が見える。原発から5kmほどの場所である。ここを襲った津波の高さは14mと言われている。かつての約450戸の住宅は消え失せていた。
請戸の人達はそれぞれ県内外に避難して6年を越える。福島県二本松市の仮設住宅や借り上げ住宅に住んでいる人も多い。仮設住宅は2年が期限だがその期限はとうに過ぎている。今は「大幅に期限を過ぎた」と追われる身の上である。
今回のツアーの請戸地区案内を引き受けてくれる人を探すのに苦労した。二本松市に住む請戸出身の人に案内を頼むがみな断られた。その理由は「ここに来ると辛くて10分もいられない」。「もうここには帰れない。高齢の母をかかえ総合病院が近い家をさがす毎日だ」。「前を向いて生きるためには、帰れない請戸への未練をすてなければならない。」の言葉だった。
やっと町会議員の高野武さんに案内を引き受けていただいた。高野さんは漁師である。津波に壊された船を国や県の補助金を元手に買い替え、希望をつないでいる。しかし、第一原発の見える請戸港の魚はここでは売れない。相馬港まで運ばなければならない。
浪江町の人々は何回となく避難を強いられた。3月11日請戸地区は大津波に襲われた。高台に逃れた人の多くは、翌12日肉親や知人を捜そうと、津波に襲われた請戸地区に戻る。
その時に福島第一原発の爆発が起こった。肉親の捜索を断念し避難をしなければならなかった。
原発直下の双葉町や大熊町では避難用のバスが東電からそれぞれに約100台準備されたそうである。この町の住民は東電が用意したホテル・旅館にそろって避難した。しかし、浪江町には東電の避難援助はなかった。それぞれが自力で原発から20km離れた浪江町の奥地の津島地区の学校の体育館などに避難した。
ところが、この津島地区は風向きの影響で大量の放射能が降り注いだ高線量地帯だった。その事実は、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)で判明していたのにもかかわらず国は住民に伝えなかった。その数日後、白い防護服姿の自衛隊員や警察官が次々到着して初めて避難者はことの重大性を知った。再度の避難を強いられたのである。
避難先のホテル・旅館はすでに先陣がいて別の避難先をさ迷いながら探すことになった。その度に避難者は離れ離れになっていった。コミュニティが崩れていくのである。その点、津島地区の北隣にある飯舘村は村の計らいで出来るだけバラバラにならないように集団避難をすすめ、コミュニティの維持に努めた。
原田さんは、今回の事故被害の本質は「コミュニティを壊され、追い出された」ことに尽きると言う。
被災後6年目、津島地区などの帰還困難地域は浪江町の80%、避難指示解除地域は浪江町の20%。避難指示解除区域には震災前の浪江町人口約2万人の内の約1万6000人が住んでいた。浪江町の中心部である。
ここに多くの人が戻って復興浪江を作れるかどうか?現在は約250人しか戻っていない。商工会の工は復興事業で仕事があるが商の方は住民250人では到底成り立たない。
6年の歳月は浪江町コミュニティにとって過酷だった。学齢の子どもをもつ多くの家庭は放射能を避けて県外移転、いじめなどにあいながらもそこに定着。町は農・漁業の主産業の復興が見込まれない状況で仕事が用意されない。浪江町には新事業の水素ステーション構想があるが経済採算面の優先で住民サイドのことは考えていないのでこの事業に人が入ってくるか疑問である。
忘れてはいけないことは、仮設住宅団地でお祭りなどを開催し壊れたコミュニティの修復に力を注いだ方々の懸命な姿である。その努力も空しい。「復興は失敗と言わざるをえない」と原田さんは言う。6年間も土地から剥がされた民を救う手立てをしない東電や国。浪江町民はまさに棄民である。
最後に「震災による直接死よりも震災後の自殺などの震災・原発事故関連死の方が多くなった」と原田さんは語った。
町民たちはそれぞれに自己責任で生きていかなければならない。
原田さんの営む時計屋は息子さんが引き継ぎ茨城県つくば市に開業する。原田さんは二本松市の復興県営住宅の一角に小さな時計店を開き補聴器を売った人たちを訪れアフターケアをするそうである。
概要レポートへ戻る【リポート 事務局峯岸八戒】
620年の歴史を持つ浄土宗の古刹、宝鏡寺の第30代住職。
1974年に国が楢葉町と富岡町にまたがる東京電力福島第二原発1号炉の設置を許可した翌年、浜通りの住人404人とともに設置許可取り消しを求める「福島原発訴訟」を起こし、原告団事務局長となる。「福島原発避難者損害賠償請求訴訟」原告団長などを務めるほか、「原発問題住民運動全国連絡センター」などの活動に尽力している。
避難命令が出された地域は12市町村、6万4000~6万5000世帯、約8万5000人におよんだ。現在は、浪江町の一部、大熊町、双葉町などの帰還困難区域を除いて解除された。楢葉町は2年前(2015年)の9月5日に解除されたが、地震前、2,887世帯、8,011人いた住民のうち、戻ったのは、今年3月3日の時点で441世帯、818人。地震前の約11%に過ぎない。
その後、人口が増えているが、それは廃炉作業労働者の移住によるところが多い。賠償が打ち切られる来年3月までにあと数%ほど戻る可能性は考えられるが、そのあたりで帰還者数はほぼ落ち着くだろう。
問題は、帰還した818人のうち、49歳以下が147人しかいないこと。原発終息までに40年以上かかることを考えると、その頃にどれだけの人がいるか?
8千人いた人間が800人しか戻らず、そのうち若い世代が数%しかいない。楢葉町でさえこのような状況だから、居住制限区域があり、帰還困難区域がある町は想像がつく。
今後40年から100年は廃炉のための町。取り出した溶融燃料の行き場所などあるはずもない。最終的には最終処分地にならざるを得ないのではないか。死に絶えても、そんなものあってもらっては困るが、他で引き受ける場所があるはずがない。ここで生まれ育ってきたからには最後まで行動し続けなければならない。
高レベル放射能を放出する溶融燃料が大量に生み出される。永久に管理しなければならないようなものをいい加減に置かれては、子々孫々までの大問題である。しっかり条件を見極めなければならない。
私自身、避難前7反歩の田んぼやっていたが今ではそのうち5反歩がフレコンパック置き場になっている。避難指示解除されて戻ってきた人たちが3.11前の生活を再スタートできるかというとそうではない。戻ってこなかった人たちの多くも路頭に迷っている。元の生活を取り戻せない、そのことに政府や電力会社は無責任ではないか。
1960年8月、チリ地震による津波が起き、懸念があるにも関わらず福島第一、第二原発の建設が決まった。その時から危機を訴え、対策を求めてきたが、具体的な対策は何一つ立てられず、低人口地帯の人間は無視されていると感じざるを得ない。3.11のような事故は二度と起きないと国民が信頼できるような政策を望む。
チェルノブイリ原発事故が起きた翌年87年から原発反対の住民運動をしてきた。「原発大事故、次は日本」と電力会社や政府に具体的に訴え続けてきた。それが現実のものとなってしまった。いまだに原発推進政策は収まらず、国や電力会社は、県民の福島第2原発の廃炉要求を聞き入れない。原発がなくならない限り、第二の福島は生まれる。
最終処分について責任を持って取り組んでいくのは、今を生きる我々の責任ではないか。原発問題住民運動全国連絡センターの役割は重要。
「何の前触れもなく、それまでの生活、人生すべてが奪われてしまったら?自分の身に置き換えて考えてみて欲しい」と結んだ。
概要レポートへ戻る【リポート 事務局松本照喜】
「生の声を聴く機会が得られたことに感謝。何故、このような現状を引き受けなければならないのか?原発を推進してきた科学者や権力者はどう受け止め対処するのか、改めて考えざるを得ない機会だった」(70代・女性)
「偏りなくいろんな人たちの話を聞けたことがよかった。わたり病院の齋藤先生、飯館村の菅野村長の話をはじめ、ここで見て聴いて知ったことを周りの人たちに伝えていきたい」(30代・女性)
「現地に行って初めてわかることがあった。その場に足を運ぶことがどれほど大切かということを実感した」(70代・女性)
「原発と闘い続ける早川住職の悲痛な叫び、無念さを痛感。我がこととしてこの問題に取り組んでいきたい」(60代・男性)
「なかには明るく前向きに生きていらっしゃる方もいたが、大変な状況、初めて来てみてわかった。報道に携わるものとしてどう表現していけばいいか考えたい」(30代・男性)
「震災の翌年、家族と共にレンタカーで海岸線をまわった。6年半たったいま、復興したところもあったが、できていない、というか、復興できない場所もあった。行き場のない大量のフレコンパックを見てやるせない思いがした。これまではマスコミのフィルターを通した情報を見聞きしていたが、実際来てみて、自分の目で見て、肌で感じて、直接話を聴けたことは意義があった。今後の人生、何かできることがあればしていきたい。少なくとも関心を持って毎日生きていきたい」(60代・男性)
「ここには、地震、津波、放射能、三つの被害があった。地震、津波は自然災害で防ぎようのないものだが、放射能は人災で防ぐことができた。原発の恐ろしさを真剣に考え、なくすような活動していきたいと思った」(60代・女性)
「大学時代、原子核工学科で原発関係の勉強をしていた。その後は別の方向に進んだ。卒業生に送られてくるニュースレターを読むと、震災直後は、原発への戸惑いも書かれていたが、最近はまた進めるような内容へと変わってきている。早川住職の無念さを思うとやりきれず、同級生など、原子力に今も携わっている人たちはこういうところに来て見聞きしているのか?推進の意見は変わらないのか?政治家も含めて、実際ここに来て見て欲しいと思った」(50代・男性)
「いろんな人の話を聴けてよかったが、一つひとつ消化するにはそれなりの時間が必要だと思う。つらい出来事をプラスに変えていく力を持った人たちもいるが、そうでない人たちのほうが圧倒的に多いはず。そのことを思いながら、今後を見つめていきたい」(50代・女性)
「自身、長年、報道の仕事を続けてきた。現地の報道も見続けてきたが、今回、生で見聞きしたことは感覚的にちょっと違う印象、記憶として残った」(60代・男性)
「思いがほとばしり出るような勢いで語ってくださった方たちの6年半の暮らしをよく感じられた。形だけ寄り添っている今の政府、こうした状況がありながらなおかつ原発をよそに売っていくという感覚を持った今の政治に終止符を打つにはどうしたらいいのか?をますます、しっかり考えなければならないと感じた二日間だった。今日以降、福島のもの、たくさん食べようと決意した」(60代・男性)
「現場に足を運ばないとわからないことたくさんあった。二日間ではほんの一部、わかった気になってもいけないが、来て見てよかった。それぞれに苦労や悲しみ、絶望を味わいながらも前向きに力強く生きていらっしゃる方もいて励まされた。それぞれのお話には福島を忘れないでというメッセージがあったように感じた。実際ここに来ない人たちにどう伝えていくかを考えたい」(50代・女性)
「お話しいただいた皆さん、それぞれ、短い時間ながら印象に残るものだった。わたり病院の齋藤医師が話された事実は興味深いものだった。具体的でとてもよく伝わってきた。浪江町の原田さんの熱意にも感動した。普段、無意識だが、人が生きていく上でコミュニティの大切さを福島に来て知らされた。野馬土の三浦さんの前向きで明るい姿にはこちらが勇気づけられた。このほか民報の鎌田さん、菅野村長、森先生、皆さんの熱意を肌で感じて、福島が身近になった。松川浦の亀屋旅館のお料理や、お昼に食べた仕出し弁当もとても美味しくて忘れられない。運転しながら案内、解説してくださった、親切な運転手さんにも感謝したい」(50代・女性)
「実際来てみないとわからないことばかりだった。壊された土地、家、心がどう再生できるのか?人の手に負えない原発は扱ってはいけない」(50代・女性)
「国家が原発の安全神話を打ち出すことによって事故が起こり、今後、コミュニティや自治体が消えていくということが現実として起こってくるのだろう。これに対して今の政府は責任を取ろうとしていないことに憤りを感じる。ではどうしていったらいいのかということを皆さんと共に考えていきたい」(60代・男性)
飯舘村に入った私たちの目に飛び込んできたのは、農地のそこここに積み上げられた黒く大きな袋の山。除染土などを詰めたフレコンバッグだ。その数、230万個。原発に近い中間貯蔵施設への運び出しがようやく始まったが、撤去が終わるまでに何年かかるのか、見通しは示されていない。
飯舘村は、福島県浜通りの北西部、阿武隈山地の標高500メートル程のところにある農村だ。住民の7割がブランドとなった肉牛やコメ、生花などの生産に取り組み、「日本一美しい村」に数えられた緑豊かなこの村を2011年3月、原発事故が一変させた。東京電力福島第一原発から40キロ程離れた村に、風が運んだ放射性物質が降り注ぎ、人口6000人余の村は「全村避難」を余儀なくされた。
それから6年。飯舘村では、今年の3月いっぱいで、一部の帰宅困難地区を除いて「避難指示」が解除された。
元の庁舎に戻った村役場で私たちを迎えてくれたのは菅野典雄村長(71)。帯広畜産大を卒業し、酪農経営の後、1996年、村長に選ばれ、長く「自主自立の村づくり」を率いてきた。原発災害は、その菅野村長に経験のない難題を投げかけた。
「放射能災害の特異性です。目に見えない災害で、村民の受け止め方は百人百様。その中で対策を進めなければならなかった」。
菅野村長は当初、住民の避難に慎重だった。集団での離村は地域の衰退に直結しかねないと懸念したのだ。被爆の不安が募る中での村長の姿勢が、村民からの反発を招いた。
「村をとるのか、村民の命をとるのか」。
その後、除染の範囲を家の周辺だけに限定し、被災者への補償額を放射線量によって地域ごとに差をつけたことなど、国の方針を村長が受け入れたことで、溝がさらに深まった。
国から避難指示解除の方針が示された後の去年10月の飯館村長選。無投票から12年ぶりの選挙になった村長選で、菅野村長は6選を果たした。しかし、避難指示解除に反対と訴えた候補も4割を超える票を集め、村内の対立が浮き彫りになった。
避難指示が解除されて半年後の今年8月末の時点で飯舘村に戻った住民は人口の8.5%の488人。その多くが高齢者だ。村は子どもを持つ若い家族の帰村を促そうと新校舎を用意したが、来春再開される村の小中学校やこども園に通う予定の子どもは対象700人余りのうち52人にとどまっている。村長の孫たちも帰らないという。
飯舘村では、昨年末までに宅地などの除染が終わり、生活環境が整ったとされる。しかし、道路脇の草むらでは線量計が鳴り続け、かつて村人たちの食卓を賑わわせた里山のキノコからは、この秋も基準をはるかに上回るセシウムが検出された。村の面積の75%を占める山林の除染は手付かずのままだ。除染のため、肥えた表土を削り取られた農地を元に戻す技術は確立していない。
山あいの狭い土地を開墾し、冷害に悩まされながら、知恵を出し合い、協力しあって豊かな田畑を育んだ飯舘村の人々。その「までいな(丁寧な、心を込めた)」村づくりと景観は私たちの故郷、信州と重なって見える。
ようやく軌道に乗り始めた飯舘村での野菜づくりを諦めきれないまま、見知らぬ土地で職を転々とする若者。いつの日か子供達が帰ることを願って、村に戻り、家を改築した老夫婦。原発事故は、家族を、地域を、被災者同士を引き裂いた。一律の避難指示解除を突きつけ、「自己責任」による帰村を強いる国の方針が、さらに住民の分断を深め、復興を遠のかせている。
「ぜいたくな暮らしを求めているわけではない。ふるさとと仲間を元の姿に戻してほしいだけ」(飯舘村民)
「加害者、被害者ということなく、協力し合って復興を進めたい」「一日も早く村に帰り、できる限りのことをする。それが後世への責任」(菅野村長)。
美術・絵本評論家であり作家としても活躍する松本猛さんが、3.11の原発事故を受け、「もう一度生き方を考え直そう」と立ち上げた「信州自遊塾」。彼らが企画した飯舘村、浪江町、相馬市などを視察する福島スタディツアーのメンバーの一員として、地元の新聞記者、病院の医師、飯館村村長、農業従事者、元飯館小学校校長、仮設住宅の被災者、原発に反対し続けている住職の方々から話を聞く機会を得た。
原発事故後、福島には複数回出向き、事故による放射線量の実態や、除染により大量に発生したフレコンバックの処理の現状、戻りたいのに戻れない避難者の声を聴いてきた。震災から6年半が経った現在、周辺の十二市町村の避難区域解除は進んでいるが、「以前住んでいた場所に戻れるようになって良かった、またゼロから頑張ろうよ」とは単純にまとめられない、福島のリアリティが強く感じられたツアーであった。
例えば、福島市・わたり病院の齋藤先生は、家計(補助金の有無)、生活の質(避難による大家族から核家族への変化、また仕事の有無)等、同じ避難所生活でも様々な格差が存在しており、同じ被災者でも上層下層があること、線量を下げただけでは解決しない問題が混在しているのでなかなか帰還は進まないといった現実を語られた。
また、避難解除された飯館村村長の菅野さんは、原発事故前は6,000の人口だった村に現在400人程度しか戻っておらず、若い人(子ども)はなかなか戻ってはこないのが現実だが、戻りたいと思ったときに戻れるようにするのが行政の仕事だと思いやっている、と日々悩む中でどのような眼差しをもって仕事に取り組んでいるかという覚悟を語られた。
浪江町で時計店を営んでいた商工会会長の原田さんは、原発事故の本質は「コミュニティを壊されてしまった」ことだと言い切られた。今、復興のために、水素ステーションなど最先端事業の工場を浪江に作ろうとしているが、生活と接点のない事業所ができても浪江の人が戻って働く場所はあるのか疑問を持っており、「元の場所で生業があり生活ができる」ことで、初めて復興と言えるのではないかと静かに述べられた。さらに、今回様々な方から耳にした諦めと疑いを、原田さんも口にされた。
“元々あったコミュニティを突然失って、それでも必死になって避難先で築いた新しいコミュニティがある。それを手放して、またここに戻ってくることを想像すれば、それは非常に難しいことです”
コミュニティの崩壊、避難生活、人口減少、生業の喪失…原発事故後の問題はたくさんある。今回、話をしてくれた人たちは困難な中でも前向きに自分の価値を作っている人たちだったが、そんな風に語れる人はごく一部で、本当はもっとたくさんの生の声があることを忘れてはならない。丁寧に話を聴かなければ「戻りたいのに戻れない人々」は「戻れるのに戻らない人々」に変化し、「なぜ、どうして戻れないのか」「何が問題なのか」という視点は置き去りにされ、聴こえてこない小さな声は無視されてしまうのだ。
被災者ではない私たちが、原発事故によって壊されたコミュニティ、複合的に絡み合った問題、それらの受け入れがたい事実に対し、当事者として真剣に悩んでいるその姿を(聞きかじった知識だけで)「間違っている」とか「正しい」などと口に出すことはできない。
本を読んで情報や知識を得ることと、実際にその地に出向いて話を聞くことの違いは、話し手である当事者たちの、その表情や息遣いを感じることだ。本当の事を正しく知ることはひどく難しい。
しかし、今回のツアーで私が「見て」「聞いて」「感じた」ことを身近な人に伝えることはできると思うのだ。それが、私なりの福島との向き合い方だ、そんな気持ちを、今持っている。