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〈レポート〉第2回講座「女優・根岸季衣と3.11後の生き方を語ろう~ 非戦・原発・芝居・生きざま~」

2011.11.21 | カテゴリー:講座の記録

10月29日に開催した第2回講座「女優・根岸季衣と3.11後の生き方を語ろう~ 非戦・原発・芝居・生きざま~」には、92名の方にご参加頂きました。会員数も11/21時点で127名に増えました。ご来場頂いた方々、どうもありがとうございました。

レポート

(第一部)

対談 根岸季衣 × 松本猛
<朗読・根岸>  ※映像、音声でもお楽しみいただけます

 

小学校の屋上の見張りのおじさんが鐘をたたいて叫んだ

「敵機ー!」

僕は真っ先におばあさんの手をつかまえて、壕のいちばん奥に駆け込んだ

もうその時にピカッと光ってしまった

そして僕は強い風で壕の壁にたたきつけられた

しばらくして僕が壕の外をのぞいてみたら

運動場一面に人間が撒いてあるみたいだった

運動場の土が見えぬくらい倒れていた

たいていは死んでしまって動かなかった

学校の周りの町はみんな燃えていた

僕の家のところも勢いよく燃えていた

兄さんも妹たちもみんな防空壕に走りこむのが遅かったので、やけどをして泣いていた

おばあさんはロザリオを取り出してお祈りをしていた

僕は防空壕の入り口に座ってお母さんとお父さんとが来るのを待った

30分も経ってからお母さんがようやく来た

血だらけだった

お母さんは家でお昼のご飯の用意をしていてやられたのだった

お母さんにしがみついた時のうれしさは、今も忘れない

お父さんは、待てども待てども現れなかった

妹たちは明くる日に死んだ

お母さんは…、お母さんも、その明くる日に死んでしまった

それから、兄さんが死んだ

僕も死ぬと思った

防空壕の中で並んで寝ている誰も彼も、みんな死ぬんだもの

生き残った人たちが運動場に木を集めてきて、そこでたくさんの死骸を焼いた

兄さんも焼かれた

お母さんも、見る見るうちに骨になって、熾きの間から下へぽろぽろ落ちた

僕は泣きながら、じっとそれを見ていた

おばあさんは、ロザリオのよりをしながら見ていた

おばあさんは「天国へ上ったらお母さんに会えるのだよ」というけれども

おばあさんはもう年寄りだから、あとすぐ天国へいけるだろうが

しかし、僕はまだ子供だから、あと何十年も先でなければ、

あの優しかったお母さんに会えない

兄さんとも遊べない

かわいい妹たちともお話できないのだよ

僕は山里小学校に入った

今は四年生だ

あの運動場はすっかり片付いて

たくさんの友達が大喜びで遊びまわっている

あの友達は、ここでたくさんの子どもが死んで、焼かれたことを知らない

どうかした時には、僕はあの日のことを思い出す

そして、お母さんを焼いた、そのところにしゃがんで、

そこの土を指でいじる

竹で深くいじると黒い炭のかけらが出る

そこのところをじっと見ていると

土の中にぼうっとお母さんの顔が見えてくる

他の子どもがそこのところを足で踏んで歩くのを見ると

腹が立つ

運動場に出るたびに僕はあの日を思い出す

運動場は懐かしい

そして、悲しい

朗読風景

 

 

 

 

 

 

 

<朗読劇「核・ヒバク・人間」>

松本) 東京から根岸さんに来ていただきました。

根岸) みなさん、よい天気の中、よく室内にお越しくださいました。(笑)どうぞお付き合い下さい。

松本) 朗読をお聞きしていて胸にせまるような思いでした。

根岸) 今年の夏に、終戦の日に上演させてもらった「この子たちの夏」の中の一つなんですが、その時に、実際にその頃の広島、長崎にいた人たちの手記を集めてリーディングしたんですけど、今私が読んだ辻本一二夫さんは、まだご存命で、原爆病院に今もいらして。ほとんどの方と演出の木村光一さんは会っているんですけど、この方だけは絶対会いたくないと、昔にふれたくないと。当然ですよね、これだけ肉親をなくして。だから実際に会ってお話を聞くことはできなかったそうですが。筆力のある子どもだったと思うんですよね。

松本) すごいですよね。根岸さんは、「非戦を選ぶ演劇人の会」のメンバーですが、この会はどういう会ですか?

根岸) そもそもは9.11のテロの時に演劇人、劇作家が中心に集まってリーディングをしよう、何かメッセージを送ろうと、アピールをするために結成されました。私はその時にはいなかったんですが、友人の渡辺えりさんとか、勘三郎さんとか何人かが集まってリーディングをしたというニュースを見て、9.11はショックだったので、何か私もぜひ参加させてほしいなと申し入れて、それから初めは年1回、変則的にゲリラ的に他人が使っている劇場の昼間、マチネ公演のあとにリーディングをさせてもらったりとか。みんな劇作家の人たちがしっかりした方たちなんで、永井愛さんとか渡辺えりさんとかみんな一線で活躍している劇作家、演出家が集まって、役者はあとから付いていくだけ。で、リーディングを今まで重ねてきて、ずいぶんその中でいろんなことを私、逆に学ばせてもらっているというか、そういう会ではあったんですが、やっぱり今年からは自分の心構えとかも全く変化したという感じはありますけどね。

松本) ことし僕は「非戦を選ぶ演劇人の会」がピースリーディング、構成劇をやったのを聞きに行きました。チラシを持ってきたんですけれど、根岸さんはじめ何十人も出てましたね。それこそ有名な市原悦子さんとか渡辺えりさんとか、高橋長英さんとか、いろんな人が次々と発言をしていく。その中身を聞いていると「核・ヒバク・人間」というタイトルの劇だったんですが、文字で読むのと耳で聞くって、こんなに違うのかと思った。

根岸) それを言っていただけると演劇人としてはやりがいがあるとか、うれしいなと思うんですけど、今はみなさん、いっぱい学ばれている方いっぱいいらっしゃるけど、「すごく身体に入ってきた、響いてきた」といってくださる方が多くて、そういう意味ではすごくやりがいを感じています。

松本) あの時に、僕は「これは信州でも持ってきてやれないかな」と思ったぐらい。

根岸) 大阪とかの劇団でも、私たちがちょっと出張したりして大阪の劇団中心にやったりとか。「非戦を選ぶ演劇人の会」のサイトで台本を無料で公開しているんです。ですから、ぜひパソコン使いの方は、興味のある人は見て、素人の方でも集まって。今までも永井愛さんの「9条を守りたいのに口下手なあなたへ」という作品もあったんですが、それもいろんな9条の会でやってくださって、見に行ったことがあるんですが、やはり、伝えたいという気持ちがあると素人の方がやっても伝わるんですよね。熱意が、訴えたいことがあるとすごくおもしろかったんです。こんどの「核・ヒバク・人間」もまだほかでショートしてやりたいとかいう申し入れも下さったりして。全部どんどんやってくださいと、公開しているんで。もし、よろしかったら、興味のある方はそんな台本を見ていただければと思います。

松本) 僕はその永井愛さんから今回シナリオを送ってもらって見せてもらったんです。それを目で追って読んだんですけど、やっぱり違うんですよ。あの時に聞いた時の感動とこんなに違うのかと思いました。せっかく今回来ていただいたんだから、その中でさわりの部分だけ、実はそれだけでもすごいんですけど、皆さんに読んでいただけたらと。

根岸) こないだやったのは、原発の今の福島のことだけじゃなくて、核エネルギーそのものを、いろんな方向から描いてみようと、すごい情報量だったんですけど、きょうは、一緒にやっている実行委の劇作家の篠原久美子という女性が、これまで何度も福島に入っているんですが、彼女が初めて飯館村に入った時の文章を私が読ませていただいたので、そこのところを。

松本) 永井愛さんがパンフレットに文章を書いているんですけど、とても僕がすごいなと思ったのは、「知るべきことを知らずにいる。これが今を平気で生きる秘訣でしょう。でも、あえて知り、平気でなくなることを今回のリーディングは目指しています」という言葉です。そのために作られている、「なるほど」と思ったんですね。いろんな部分で構成されている。今読んでもらうのは、福島の頭の部分だけです。それでは読んでいただけたらと思います。

根岸) では篠原さんのレポートのようなものですけど、

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石巻、女川、気仙沼、いくつかの被災地を訪れ、被災の現場も見てきました。

車の助手席で地図を見ていると、あるはずのものがなにもない。

そこにあるはずの信号も、コンビニも、銀行も、なにもない。

山側の木々に漁の網やブイが引っかかり、電車と船が同じ場所に転がっている。

その瓦礫の中に大きな魚が何匹も死んでいる。

 

そんな光景と、テレビが決して伝えることのない朽ちた魚の生臭い匂いが、どこの現場にもありました。

飯舘村で見た光景には、それらとは全く質の違う痛みがありました。

飯舘は美しい村です。新緑の季節、山の緑が青い空に映えてまぶしいほどでした。

家も壊れていません。瓦礫も魚の匂いもありません。風は爽やかです。

でも、その風景の中に、人間が、いない。人が歩いていない。対向車もほとんど来ない。そしてなによりも、農村であるはずの村の畑に、雑草が生え放題になっている。

田んぼが、ひからび、ひび割れている。牛舎に牛が一頭もいない。働く村人の姿がない。ただ、自然だけが美しい。それが、飯舘村の悲しさでした。

この村では、普通の日常会話が、切ないくらいに異常でした。

酪農家の長谷川健一さんのお宅を訪れたとき、ちょうど、村役場の人たちがモニタリングに来ました。

庭で計った線量は、地表近くで八・六マイクロシーベルト。

年間では七十五ミリシーベルトをゆうに超える線量です。

その線量に対して、長谷川さんは、

長谷川(読み・松本) ま、あんまり変わんねな。

篠原(読み・根岸) 役場の方達も、

職員(松本) そうだね。役場のとこで、なかなか放射線量が下がらないから、なんとか下げようってことで、モニタリングポストを土のとこからコンクリの上に出したんだって。

そしたらずいぶん下がったみたいだよ。

篠原(根岸) いや、それはダメだろう、と突っ込みそうになりました。

職員(松本) なんか、四マイクロまで下がったって。

篠原(根岸) それでも私が村役場を訪れたとき、コンクリの上に移されたというモニタリングポストは、地上一メートルで七・一マイクロシーベルトを示しました。

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<福島県飯舘村>

松本) 実はこの飯舘村というのは「日本の美しい村百選」にも選ばれている素晴らしいところで、僕も9月に行ってきたんですね。まさに人がいない。飯舘村って福島の原発から43キロ離れている。かなり離れているんですよね。だから、そこは何の原発の恩恵も受けていないし、お金も来なかった。だから注目された町だったんですけど、わずか6000人ほどの町に小学校が3つあったんです。僕はそこに行って、もうちょっと原発に近い浪江町から車を走らせてゆくと、ある地点で道路が封鎖され、警察官に止められてしまった。僕は実は飯舘村の子どもをテーマにした絵本を作ろうとしていて、学校の校長先生たちにインタビューしに行ったんですよ。今、飯舘村の小学校は近くの線量の低い中学校に間借りしていて、3校が同じ場所で授業をしてるんです。その校長先生のうち、一人は古くからいた方で、二人は教育委員会から新しく来た先生でした。インタビューは3人一緒じゃないといけないと言われたんです。なんかおかしいなって思ったんですが、古くからいた校長先生はあまりしゃべらないんですよ。教育委員会から来た新しい校長先生は「避難していた、子どもたちもどんどんどんどん戻ってきています。元気でしょ、ここにいる子どもたち」と語りかけてくるんです。中学生やその地域の子は外で遊ぶことができるのに飯舘村の子どもたちは、被ばく線量が多いために校庭に出ることができないんです。たしかに見た目はみんな元気でしたが、ストレスは本当にないのだろうかと思います。確かに初めのころ避難した子どもたちが戻ってきているんですが、理由は、福島市や郡山に転校した子どもたちは、そこも同じくらいの放射線量がある、だったら、よく知っているみんなと一緒のほうがいい、それで戻ってくるんです。だけど、子どもたちは、今、住んでいる家やから学校までずいぶん離れている子がたくさんいます。朝すごく早くスクールバスが迎えに行って、みんな半分寝ぼけながら学校に通ってくるという状態だったんですね。

前の校長先生のところも、訪ねていったんです。すると、もう堰を切ったようにしゃべり始めるんです。どんなにこの子たちが大変だったのかと。政府が「大丈夫です。大丈夫です」と7月ぐらいまで言い続けために、その間に子どもたちはどれだけたくさん被爆したのか。実は転校していった子どもたちも、それぞれの地域でものすごいいじめにあっている。そういう手紙が来る、というんです。もう一人の校長先生も、同じような話をしてくれましたが、その先生は、今いる学校も大変なんですよ、というんです。それは3マイクロシーベルトのところが近くにある。そうでないところもある。そうするとある地域の家だけは強制避難してくださいという指示が来るそうです。すると、学校がばらばらになっていっちゃう、というんです。

根岸) 本当に、復興ということばで、戻すことがいいことだということになっているけれど、子どもの健康を考えると犯罪だと思うんですよね。

松本) 子どもたちとも話しましたけれど、どこにでもいる元気な子どもたちです。放射線は見えない。臭いもなければ、何も変わらないんですよ。誰かが服脱ぎ始めて半そでになると、みんなそのほうがいいから、そうやっちゃう。つまり、当たり前のように元の日常が戻りはじめちゃうんだけど、親がすごく考えている人はちゃんと子どもにマスクをさせたり、長袖を着せたりとか。でも、その子たちが、周りがしてないんだからと気持ちがだんだん変わっていってしまう。

根岸) そこで仲間はずれになったりとか、すごいおかしなことが、いっぱい起きているのが流れてこないですよね。一般のテレビとか新聞の情報とか、ものすごく感じられるのは、安心させるような情報ばかり。はじめからそうですけど、ほんとに、永井さんの文章じゃないけど、知ろうと思わないとそういうところまで、そういう情報が入ってこないし、知ればこっちも辛くなるけど、辛くなるのが現実なんだから、今ちゃんといろんなことを正しく知らなければいけないなと。

松本) 来てほしいという人にも何人か会いました。行かないとわからない。情報というのは残念だけど、操作されるということを僕は感じましたね。教育委員会の人たち、いい人なんです。けっして自分たちが何かを隠そうと思ってそういうこと言っているわけじゃないけど、「子どもたち、元気でしょ」「問題ないでしょ」と言う。いったいなぜそういうことが起こってしまうんだろうかと思います。

根岸) お金がとてもかかっちゃうっていうところに結局行くから、少しでも被害を少なく見せたいんでしょうけど、やっぱり怒んなきゃいけないと思うんですよね。どうしても国の悪口になったり、政治を責めるとか、東電責めるとか、そういうことで、お腹が収まりそうになりますけど、責めてるだけじゃなくて、ずっと頭にきてないといけないんだなと。かといって、自分たちにも日常生活があるから、活動家になる気があるのかって言われたら、それはちょっと忸怩たる思いがありますよね。でも、知り続けていかなければいけないんだという思いはすごくある。

きょう始まる直前に渡辺えりさんからメールがあって、今、山本太郎さんがすごく前向きにいっぱい運動されているじゃないですか、郡山の裁判で、子どもたちが本当に安全な場所に移れないことに関して声をあげようって、ビデオレターを送れませんか、みたいなのが来たんです。そういう声を掛けられた時に、やれる範囲で、自分で発言できるところではしていきたいなと本当に思います。

 

<3.11以後に考えたこと>

松本) 今回の3.11の前と後について、ここにいらっしゃる皆さんのなかでもいろいろ考えた方、ずいぶん多いと思うんですが、根岸さんは3.11の前と後とでは自分の中で何か変わりましたか。

根岸) 猛烈に変わりましたね。とにかく涙もろくなっちゃいました。あまりに悲しくて。非戦を語る会で実行委員の中でメーリングリストというのを流していて、ネット上であらゆる情報を得られる仲間がいるので、そこから入ってくる情報をまとめてみると、いつももう真っ暗になってしまうんです。だけど、これが現実なんだ、もう元に戻ることはできないんだというところから、何をしなければいけないのかを強く考えるようになりましたね。

松本) 3.11の時は東京で芝居をやっていたんですか。

根岸)「シングルマザーズ」をちょうど東京でやっている真っ最中で、その夜、公演があったのでとにかくすぐ駆けつけたんです。当然その日は電話がつながらないので、制作の人が固定電話にへばりついてみんなに連絡してその日は休んで。そのあと東京都が関係している小屋だったので、2日間休みなさいという上からの指令があって、休んで。再開した日の感動は、本当に私、今まで何十年間、役者やってきて初めてのものでした。東京もいつ停電になるかわからないとか、車も電車もアクセスが非常に悪い状態で、その時にいらしてくださったお客さんというのは、ものすごく、どっかに後ろめたさも持っているんです。こんな時にお芝居なんか見ていいのかという気持ちと、ものすごく渇望する気持ちが客席からぐわっと伝わってきたんですね。だから私、正直それまで自分のために芝居をやってきたと思うんですけれど、あっ、芝居ってお客さんと一緒にその時間を共有するんだという感覚をその日に初めて身をもって体験しました。そこから役者人生、ものすごく考え方が変わったと思いますし、文化の必要性ってことをものすごく感じたんですね。

松本) その後すぐ被災地にも行かれましたよね。

根岸) 3月いっぱい東京公演があって、4月は全国公演だったんですけど、その中に宮城県も入っていました。仙台よりもっと南の泉南という場所だったんで、当然無理だろうと思ったんですけど、「小屋は大丈夫だから来てください」と小屋の方がおっしゃってくれてやることになりました。やるなら、これは、売った切符のお金を全部返して、チャリティー公演にしましょうということにしました。劇場の方も頑張ってくださって、避難所の方とか全部声を掛けてくださって、満杯のお客さんを前に公演をしたんです。これはものすごくいい経験をさせてもらったなと思いました。私、あの時期に役者をやってて、舞台やってて本当に良かったなと。自分の立つ位置がちゃんと見えたというか、今、自分がやることが見えたというか。みなさん本当に不安定な気持ちだったと思うんですよね、3月、4月。ほんとに皆さん感動してくださって、アンケートとかも涙無しでは読めないぐらい。「きょうのお芝居観ようと思ったら何を着ようと考えて浮き浮きしました。もう何週間もお風呂に入ってないけど」とかっていうアンケートだったり、「初めて舞台というのを見た。本当にここまで来てくれてありがとう」と書いてくださったり、すばらしい体験だったなーと。

松本) 今回の被災地の話というのは、音楽だったり、芸能だったり、絵本だったりが大きな役割を果たしていて、文化というものが人間にとってどれだけ必要かということを、あらためて知る機会だったのではないかと思います。

僕は3.11の時は安曇野で原稿を書いていて、ゆっくり長く揺れたので、これはなんだろうとあわててテレビを点けて、ショックを受けたんですが、だんだん日がたつにつれて、今までの自分の生き方というものを考えるようになっていった。それはどういうことかって言うと、自分は何の問題も感じずに、たくさんの物を消費して、いいものがあればもちろん買いたいと思うし、電気というものは普通にいくらでも使えるものだ、と思っていたんです。僕の中で、今までの生き方というのは、本当によかったんだろうか、ということを問い直し始めたんですね。それが、この信州自遊塾をつくろうというエネルギーにつながっていったんですけど、あそこで起こった原発の問題ってなんだったのでしょう。僕自身は原発に対して、原発マネーの問題とか、そういうことはおかしいなと思ってはいましたけれど、どこかで「事故なんか起こらない」とやっぱり思っていた。

根岸) 洗脳されていた。

松本) そうなんです。それは、世界で日本の原発は一番安全だと言われていて、僕の古い友人も関西電力で原発関係の仕事をやっている人がいて、彼は「何で反対するやつがいるのか僕には全くわからない」と、その人も信じきっていたわけです。「こんなに安全のためのシステムを何重にも何重にもやっているんだよ。どうして事故が起きるって心配するやつがいるんだ。おかしい」って彼はいっていました。だけど、今回、徐々にだけど、少しずついろんなことがわかってくると、国策の恐ろしさを感じます。

根岸) 東京にいて、本当に傲慢だったなと、思います。都会人ていうのは、知らないうちに当たり前にあるものとして生きていたから、その痛みを今感じることばかり。昔やった「トレッキング紀行」という番組を久しぶりに再放送するにあたって、見直したんですね、ある女優さんが、昔ながらの暮らしをしている若者に向かって「都会に出たいと思いませんか」と聞いたんです。これ、事故の起きる前だったら私も同じことを聞いたなと。「都会が一番」とどこかで思っている、なんて不遜な生き方をしてきたんだろうと。それを見たときに自分が恥じ入るような気持ちになって。都会って当たり前のように、自然なんて全部自分が牛耳れるような気持ちで生きているなと。

松本) 都会の生活、例えば東京だったら都心に住んで、高層ビルのオール電化の部屋にいて、高級服のショッピングをしながら、おいしい料理を食べる、これがわれわれの憧れの生活だったわけですね。お金さえあれば可能になる。それが幸せの基準だったような気がするんですね。「安い飲み屋が好きだよ」と僕は言うけども、「でもやっぱりおいしい店に行ってみたいな」と正直思っていた。ただ、そこが本当に幸せなのかどうかということを今回考え始めた人がたくさんいると思うんですよ。

僕はつい先日、ドイツとオーストリアに行ってきたんです。東山魁夷という絵描きの調査に行ったんですけど、向こうで気がつくことは古い生活がたくさん残っている。古い街もよく保存されている。自然もものすごくよく保存されているんですね。ドイツがすぐ原発をやめるという判断をしたでしょ、あれはいったい何だったのかというと、昔から維持してきた自分たちの文化や自然に対する意識が非常に強いことと関係していると思うんです。例えば、戦争で破壊された街が、昔と同じように復元されています。復元するより、近代的にしたほうがいいとは考えない。日本だったら、全部さら地にして新しい都市計画図を作ろうって考えるでしょうけど、昔どおりにしようという意識がものすごく強いんですよ。例えばプラハの僕の知ってる古い建物の4階に住んでる人の部屋はエレベーターもないし、どう考えても便利じゃないんですよ。だけど、「古い建物に住むことがしあわせで、歴史の中に生きていることに喜びを感じる」というんですよね。今っていうのは、まさにその問題を我々自身、問い直さなければいけないと思うんですよね。

根岸) 私は、松本には何回か公演に来させていただいているんですが、とっても古いものや自然と新しいものとの融合の仕方が上手な都市だなと思うんですよね。はたから来た人間から見るとすごくそう思えるんです。ちゃんど、そういうことにプライドを持ってらっしゃる県民性ではないかと。素敵なところだなあと、いつもほっとするんですよね。

 

<いま、何をしなければならないのか>

松本) 実は僕らの子ども時代というのは、戦争からの復興の時代だった。どんどんどんどん、ものすごい勢いで自然がなくなり都市化が進んでいった。例えば「明るいナショナル」というコマーシャルがあって、明るいことはいいことだと思っていたけれども、本当にそうなんだろうか、ということを考える。

今、実はりんご農家の絵本を作っているんです。「減農薬」で頑張っている農家がテーマになっているんですけど、来年ぐらいに講談社から出る予定です。りんご農家ひとつとってみても、戦後ものすごく農薬を使うようになった。それはなぜなのかというと、効率と経済性の追求の結果なんです。大量にたくさん作るとコストが安くなる。それから、労力が減らすことができる。そして、見た目のいいものが売れる。本当は大きいものがおいしいというわけじゃないらしいんですね。ところが、我々は今、どうやって農作物を選ぶのかというと、見た目のいいものを先ず選ぶ。スーパーに出すキュウリはみんなまっすぐでなくてはいけない。色艶のいいものがでなければいけない。そういうものを作っていくためには実は農薬が必要だった。いろんなことが後になってわかってくるんですね。いったい、なぜそういうことが起こってしまったのか、たぶん、我々にも責任があったんだと思うんですよ。見た目のいいものがいいって信じ込んでいる。「だまされた」って、よく言うじゃないですか。戦争が起こった時、みんなが「だまされた」って言ったじゃないですか。だけど、もちろんだました人は悪いのだけれど、実は、だまされた人にも責任があったんじゃないか、と思うんですよ。

根岸) 第二次世界大戦の時って、演劇人とかが先頭に立って「やりましょー!」って感じじゃなかったですか、行進したりするとか。「その間違いだけは二度と起こさないようにしようね」というのが私たちの気持ちとしてあるんですけれども。勢いの波で、わあっとそっちの方に、まさに文化人が先頭切ってやってしまったみたいな。

松本) 新聞もそうですからね。すべてがそっちの方向に行った。戦争が終わった時に、新聞とか、文化人とかがものすごく大きな反省をした。そして、新しい日本をつくらなければいけないとものすごい勢いで動いていったわけですけれども、そこに問題が潜んでいた。今、実は立ち止まれるかどうか、ぎりぎりのところにあるような気がするんです。

根岸) いま踏ん張らなきゃといけないなと思うんですよね。今変えないと。

松本) そうですね。たとえば原発は安全で、クリーンで、いいものだって思わされてきたけど、あれはマスコミの責任が大きいです。小学生に、3.11が起こってだいぶ経ってから、テレビでインタビューが放映されたとき、「原発はいいと思う」って多くの子どもたちが答えるわけですよ。なぜかというとテレビでコマーシャルをやっていたからなんです。そこで、プロデューサーも芝居をする人も全部、そうなんだと思っていたんですよね。お国が言っているんだから間違いなかろうって思って、疑いを持たなかった。今、我々が何をなさねばならないのか、どう生きてったらいいのか、これが難しい。

根岸) 私、すごく短絡的ですけど、やっぱりどっか原発が再稼動すると言ったら、「やだー!」と答えるしかないと思うんですよね。世論の力というのは、なかなか取り上げられない、この間、東京で6万人集会というのがあっても、新聞によってはほんのちょっとしか載っていなかったり、すごく差があってビックリしちゃうんですけど。でも、声を上げていくしかないと本当に思います。

松本) 実際の問題として、原発を「問題ない」と言ってきた新聞界やテレビの人たちがどれだけ真摯な反省をしているのか。戦争が終わった時に多くの新聞社が大反省をした。同じような反省を今のマスコミがしているのかというと、なんか、していないような気がするんですよね。東京新聞がわりに一生懸命やってようですが。

根岸) 東京新聞はがんばってますよ。

松本) 信濃毎日新聞もわりにがんばっていますけど。日経なんかはほとんどしていないじゃないですか。僕は今回のいろいろな発言を聞いていて、文化人は原発に対してはおかしいといっている人が多いと思うんですよ。だけど、それに対して経済人と政治家はそうじゃない人が多い。これは、なんででしょうか。

根岸) わかりません。経済のことは専門家じゃないから言えないんですけど、やはり、お金が儲かるほうにモノが動いていくんでしょうね。

松本) やっぱり、原発で儲かる側の人と、原発があっても自分の生活に関係がない、これによって真ん中に線が引かれているような気がするんですよ。原発って、原発メーカーだけが儲かるわけじゃないんです。ゼネコンから鉄鋼からコンクリートからメガバンクまで、あらゆるところが、原発ができていくと儲かるんですよね。政府が原発推進を決めちゃうと、安定して儲かり続けるシステムができるんです。戦前の国策っていうのは、戦争をして、エネルギーを確保するというものだった。戦後の国策っていうのは、石炭をつぶして石油に乗り換えて、石油もまずいっていうことになれば、アメリカの意図に従って原発に切り替える、エネルギー産業というのは巨大なお金が動くから、国策によって儲かっていく人たちというのは、実はとても安定した生活ができる。それが日本を動かしてきちゃったと思うんですけどね。

根岸) でも、ほんとにこれから消費税とか年金とかいろんなことがどんどん悪くなっていくから、やっぱりみんな怒らざるをえなくなると思うんですよね、今の現実に。国の決めたことだからと楽観する人はもうほんとにいないと思う。いま一人ひとりが考えなくちゃならない状態、くさい仕組みには乗らないぞと。みんな信用しなくなってますものね、一般人は。

松本) 根岸さんの周りもそうですか?

根岸) 儲かる人の知り合いがいないんで、儲からない人ばっかり周りにいるんで、怒りを持った人間ばっかりなんで(笑)ただ、スポンサー持ってる人は発言しにくいとかね。コマーシャル出てきちゃってる人は、大きなところとつながっていると。ま、そういう人は黙ってますけどね、今の時期、沈黙を保つしかないんで。

 

<しあわせってなんだろう>

松本) 子どものころ、家の裏の畑を突っ切って森へ行って、木に登って、カブトムシとかクワガタを取っていたんですよ。その森は東京オリンピックの道路作りで見事につぶされました。道路の拡幅のために魚を釣っていた小さな川も暗渠になって、桜並木もなくなってしまいました。今、東京の「ちひろ美術館」になっているところに住んでいたんですけど、いまは、マンションが建ち、家がびっしりですよ。なんで東京という都市が膨れ上がったかというと、地方から人が流れ込んできたんですよ。つまり、都会の方が幸せだ、そういう価値観ができちゃったから。都会で生活するとなると、お金がないと幸せじゃないんですよ。そうすると、ものすごい勢いでみんな働くじゃないですか。異常に残業をして、働き続けて、そして多少のお金を稼いで、家族で心地よい暮らしをしようとするけど、その基本の考え自体がひょっとしておかしかったんじゃないか。ブータンの人たちの幸せというのは、僕はブータンの国王顧問の人から聞いたんですけど、実は、自然とどれだけ触れ合えるか、これが幸せのひとつの基準だというんです。もうひとつは、どれだけ自由な時間があるのかということ。つまりそれは、子どもと遊ぶ時間があったりとか、家族と一緒に過ごす時間があったりとか、昼寝をする時間があったりとか、暗くなったら寝る時間があるとか、そういうことです。かつて、日本にもそういう感覚があったと思うのですが、どこかでその幸せ感の基準が変わってきてしまった。

根岸) 翻訳家の戸田奈津子さん、アフリカへ行った時に「時間がない」と言ったら、現地の人に「時間はなくなるのか」って(笑)。「時間がないってどういうことだ」と言われたとか。確かに、時間がないなんて感覚は正に病気なんで、都会人の感覚なんだろうなと。

松本) 南米のジャングルの話ですが、日本のロケ隊がジャングルを進んで行くと、向こうで雇った人たちが突然動かなくなった。「どうしてか」って言うと、「我々は速く歩きすぎた。魂が後をついてこられないから、ここで休んでいるんだ」と。そういう動き方、それが、今、我々にとって大切じゃないかと僕は思うんですよね。東山魁夷が言っている言葉の中で、「文明の急速な発達というのは、人間と人間、あるいは人間と自然という関係を壊していく。我々は急ぎすぎているのではないか。狂人のみが先を急ぐ」というのがあるんですね。僕らは今、正にその問題を、3.11を境に問い直さなければいけないところに立っているんじゃないかと思います。

 

<朗読・子どもの話を聴くときは>

根岸) 3.11があって、大人がずっと原発の事故の程度ばかり見ているなかで、こどもたちの心のケアが必要ではないかと思います。阪神大震災の時も心のケアということが後から問題になって、この震災の時に兵庫県の教育委員会が作った防災マニュアルの中に「心のケア」という部門があって、子どもに対しての付き合い方だったんですけど、それがとってもいい内容なんで、なんとか広められないだろうかと思いました。私自身、主人が亡くなった時、子どもが小学校5年と中1になったばかりで、自分が生きることで精一杯で、子供の話をちゃんと聞いてあげられなかったなという痛みがあったんです。すこしでも、自分のことでぎちぎちになっている大人が、弱者に対して、子供だけでなくて、老人でも、そういう人たちに向き合う時の言葉として、優しい言葉で伝えられないかと思いました。飯舘村に行った劇作家の篠原久美子さんにお願いしてこの文章を詩にしてもらいました。4月の頭ぐらいだったんですけど、被災地に行くっていうDJがいたんで、その彼に録音してもらって、うちのバンドのみんなに声を掛けて、そのBGMをつけて、被災地にいくつか持っていってもらったんですよね。その後、被災地だけじゃなくても、大人がこんな風に人と向き合えたらと思ってユーチューブにアップしているんですけど、それを皆さんに聞いていただけないかなと思って持ってきました。

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(BGM)

子どもの話を聴くときは

1.

子どもの声を聴くときは、教えてもらう気持ちでね。

一生懸命、耳傾けて、教えもらおう、子どもの世界。

子どもの世界の扉はね、内側からしか開かないの。

信じるおとなに向かってね。

2.

子どもの話を聴くときは、じっくり、ゆっくり、ゆったりね。

言おうと思うと時間切れ、中途半端は苦しいよ。

子どものつらさと言葉はね、外に出るまで時間がいるの。

待ってる時間も、聴いてる時間。

3.

子どもの話を聴くときは、「聴いてるサイン」を伝えてね。

あいづちうって、うなづいて、子どもの言葉を繰り返し。

不安な気持ちの子どもはね、小さな合図で安心するの。

「ぼくを分かってくれてるな」って。

4.

子どもの話を聴くときは、途中で止めたりしないでね。

批判をしたりまとめたり、言い聞かせないでただ聴いて。

おとなが口を開くとね、子どもの口が閉じてくよ。

知りたいのなら、耳、開こう。

5.

子どもの話を聴くときは、瞳のサインをみていてね。

子どもはたいていおとなのね、目なんか見ては話せない。

それでも分かってほしいとき、瞳で合図を送ってる。

見逃さないで、みていてね。

6.

子どもの話を聴くときは、顔の高さを合わせてね。

上から見下ろされるとね、だれでもちょっと堅くなる。

視線の低い子どもにね、しゃがんで視点を合わせてね。

子どもが話しやすいから。

7.

子どもの話に答えるときは、声の調子を同じにね。

大きな声や高い声、おとなのいらいら伝わるよ。

子どもは意味を知らなくてもね、声で気持ちが分かるんだ。

言葉が出にくくなっちゃうよ。

8.

子どもの不安を聴くときは、子どもの気持ちを感じてね。

「なぜ?」「どうして?」が、問いつめに感じてしまうとき、あるの。

子どもの心配、不安はね、「不安なの?」って繰り返してね。

答えは、一緒に考えて。

9.

子どもの不安を聴くときは、すぐに原因、決めないで。

「地震のせいだ」「性格だ」、決めてもそれは答えじゃないの。

子どもを取り巻く世界もね、子どもの心も単純じゃない。

広く大きな視野で見て。

10.

子どもの悩みを聴くときは、子どもの力を信じてね。

しっかり聴いて、じっくり支え、色んな見かたのアドバイス。

だけど最後は子どもがね、子ども自身で解決するの。

おとなが信じた子どもはね、乗り越えられるよ、大丈夫。

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松本) 心の中にゆとりを持てるか、自分たちの生き方を変えていかなければ、子どもたちの声は聞こえないということですね。

対談風景

 

 

 

 

 

 

(第一部終了)

 

(第二部)

フロアーとの対話 <質問に答えて>

松本) 根岸さんにたくさん質問が来ています。

 

「このような活動をしていて、山本太郎さんのような目にあったりしないのですか。心配です」

根岸) 山本さんは本当に一生懸命やってらして、すばらしいなと思うんですけど、彼の場合はドラマもバラエティーみたいなものもやっているんで、なおさら大変じゃないかなと思います。そういう意味では、芝居を基本にしている私の方が身軽ではありますね。

松本) いま、周りの演劇人とか、テレビの関係者とか、そういった人たちの中で原発に対してどんなことになっているんですか。

根岸) 私たちの業界にかかわらず、みんなが世間話をするようになったというのはいいことですよね。いままで原発のことを突然口にするということは、とてもしにくかったと思います。それは原発の話だけではなくて、政治一般の話、本当に世間話でみんなが普通にしゃべれるのが、やっぱり普通の状態だなと思うんですよね。そうは言ってもスタンスの違う人もいらっしゃるから、仕事の上でなかなかそういう話、しにくい部分もあると思うんですけど、仲間を見つけられたのが、私は幸せだったなと。仲間がいるので、みんな手弁当でダイレクトメールを送るところから全部、封書書きして、糊付けして、台本を作ってという作業を、ふだんの仕事では今までやることはなかったんですけど、そういうことをしながら、しゃべることが大切だなあと思いながら作業をしています。

 

松本)「家庭との両立はどうされていますか。子どもたちの教育など具体的に教えてください」

根岸) 私、主人を14年前に亡くしまして、4年ほど前に再婚いたしまして、子どもたちも二十歳を過ぎて立派な大人なので、離れて二人の生活をしておりまして、身軽になって楽ちんしております。私が「非戦を選ぶ演劇人の会」で活動していることに関してちょっとパートナーは静観していたんですが、この原発を機に彼自身すごく変わって、下手すると、原発博士。わたしなんかより原発情報には敏感になって、そういう話が家庭の中でもできるようになって、この間のデモも一緒に行きました。わたし高校時代、70年安保が真っ盛りでしたけど、その時期にデモって行ったことなかったんですけど、実は3.11以降、立ち上がらなければと。デモというのは本当に一般の方が入るように、行進していてもカップルがぱっとそこに参加したりとか、そういうことができるようになってきて、そういうのでいいなと思うんですよね。一緒にちょっと道歩いていた人が、今まではデモって別物にしていたのを、ぱっと入って、そんな風にでも末永くずっと繰り返してやっていれば、報われてくるんじゃないかなと。ドイツでもずっとお母さんたちが永いことデモをしていた、毎週。そういうママさんパワーというのが結構あったらしくて、気長にずっとやり続けるということが大切かなと思うんです。

松本) そうですね、信州でもやりたいですね。

根岸) 信州はどうなんですか。

松本) 東京でおおきな集会とデモのあった日に、ちょこっと長野市でやりましたが、やっぱり周りから入ってくるような人はいませんでしたね。

根岸) 音楽一緒にやったりとか、サウンドデモとかね、東京ではけっこうそういう楽しいイベントもあります。

 

松本) 次の質問、「戦争、紛争、様々な社会問題があります。世の中の不条理に深く心を痛めたり、怒りを感じたり、 (ここは僕もぜひ聞きたいんだけど) 絶望したりする時、根岸さんは心のバランスをどうやって保つのでしょうか」

根岸) はあーっ(ため息)、パソコンの前でこうやって、はあーっとなってるんですけど…、そういう時にはけっこう、いけないかもしれないけど、歌いに行っちゃいますね。音楽喫茶とかへ自分のライブ用の練習に行ったりして、一瞬ちょっと無にして、再びチャージしてっていう感じですか。逃げちゃいけないのかもしれないけど。突っ張っているとボロボロになりそうな時ありますよね、気持ち、ほんとに。

松本) お酒は?

根岸) 飲みます。でも、あんまりお酒をあおろうという気持ちにならないですね、そういう時。そうじゃないですか。

松本) お酒はおいしく飲みたいですよね。

根岸) そうですよ、前向きな気持ちでね。暗澹たる気持ちであんまり飲みたくないですね。

 

松本)「3.11以降に演劇や映画で表現したいテーマや題材がありますか」

根岸) むしろ、自分のやっていることの中に意味を見出すっていうか、3.11の時にやっていた「シングルマザーズ」という芝居も、母子医療手当の話だったんですけど、沢口靖子さんが主演で、みんなシングルマザーの集まりの話で、みんな弱い人間同士だけどシングルマザーで支えている時に、彼女最後に福島に逃げてきて、福島のアパートに入ってとか…。そういう意味が出てくるというんですか、テーマをダイレクトにつかんだものだけが演劇ではないと思うし、受け取る側の人たちがその中からいろいろな意味を感じ取ってくれるとかっていうことでいいと思うんですよね。もちろん、いちばんダイレクトなのはピースリーディングとか、アピールを出すとか、そういうものはほんとに、肉体を借りて、演劇の力を借りて、ひとつ出していくものではあるけれども、演劇そのものが全部そうなればいいというものでもないと思う。そういうことをめざしてやっている劇団もありますけれども、いちばん直接的には、坂手洋二さんがやっている「燐光群」とか、まっすぐいつも問題を提示するみたいな形でやるものもあれば、ファンタジーもある。今、私、「ゴールド」というミュージカル、稽古しているんですけど、それは、ロダンとカミュ・クローデルというフランスの芸術家の話、でも、そこに、矛盾を私は自分の中で感じていないですね。今自分が表現していることと、自分が今の日本で思うこととは両立して、その中で探っていけるものだと思っているので。いつもダイレクトにその問題だけっていうことではなくて、表現者としてはいいと思っています。

松本) たぶん、芝居でも映画でもそうかもしれませんけれども、見る側としてみれば、この人は何を投げてきているのだろう、と感じて、そこをきっかけにものを考え始めていくみたいな気がするんですね。シングルマザーでがんばっている人が「福島がんばれ」というふうに思ったとおっしゃったけれども、僕自身はあの芝居を見て、男というものがどうやって作られていくのかっていうことを考えさせられた。女の人のほうがものすごく自然にたくましく生きているんですよ。だけど男は、世の中の体裁や、男らしく生きることは何かとか、どうやってそういったものを身に着けていってしまったのかということをあの芝居を見て問いかけられたような気がするんです。

根岸) ドメスティックバイオレンスの問題も含んでいたんで、1人しか出てこない吉田栄作さんという男性が、そのドメスティックバイオレンスという問題を抱えているというのがシングルマザーズのまたの話だったので、男性はちょっと耳が痛いというか、そういう思いをして帰られる方が多かったようですね。

 

松本)「 「非戦を選ぶ演劇人の会」に参加されていますが、非戦との出会いはどういうところにあったんでしょうか」

根岸) 9.11です。あれがやっぱりひとつショックだった。それに関してイラクの問題に声をあげた演劇人がいるっていうのもまたショックだったので、私も仲間に入りたいなと。

松本) 9.11のテロに対してのアメリカの対応に矛盾を感じたということですか。

根岸) 戦争にこれは加担してしまうぞ、日本が。直接的にではないように見えても、これは戦争というものにものすごく突きつけられた感じがしたんで。戦争は嫌だ、正義の戦争なんてあるわけないよと。第二次世界大戦のみたいに、知らないうちに戦争に力を貸すようなことはしたくないなと。

 

松本)「 「非戦」と「不戦」との違いについては?あるいは「反戦」」

根岸) 会を立ち上げたのは作家たちなので、その辺の協議の仕方というのは聞いてはいないですけど、やっぱりその時点では「antiwar」なんだけど、「非戦」といった場合、「反戦」より緩やかなんでしょかね。ちゃんと聞いてから私来ればよかったですね。言葉に対しては劇作家より無責任な育ちをしているもので(笑)

「不戦」というのは消極的過ぎませんか、なんとなく。「自分はやらない」というような。日本だけやらなきゃいいような感じがしますよね。戦争そのものを、全部の戦争を否定するならば「非戦」というほうが正しいのかもしれませんね。

 

<参加者の発言とトーク>

松本) いろいろな質問があるんですが、「語り合いたい」というのがきょうのテーマでして、参加者の話を聞きたい、という提案があるんですが、この中で被災地に行ってボランティアをしたり、活動をしたりした経験のある人はいますか。はい、一番後ろの方から。

 

(会場・男性)

私は現役の消防士で、3.11の直後に被災地へ緊急消防援助隊というチームを組んで七ヶ浜という宮城県の町へ行きました。映像等を見ると、涙がこみ上げてくる。私は元々18歳で東京へ行きまして、東京電力に10年ほどいました。事情があってこちらに帰ってきまして、消防士になったんですけど、今考えてみると、東京電力の起こした原発の問題、お詫びをするために消防士になったのか、というようなことを思いながら活動をしました。2回ほど行きましたけど、被災地で生の声を聞くことができました。家族5人ほどで高台に逃げようとしたんですけど、90歳のおじいちゃんを残して行くわけにいかないということで、家族4人がなんとかおじいちゃんを助けようと高台に上ろうとしたんだけれど、おじいちゃんは「自分たちの命は自分で守れ。私のことは置いて、家族は高台に逃げろ」と。おじいちゃんを置き去りにして家族は高台に避難したというような話も聞きました。

震災の後、救援に出発しまして、当日12時ごろ、新潟を過ぎたところで足止めとなりました。「緊急消防援助隊はそこから福島方面へは行ってはならない」と。事情が全然わからなくて、報道を聞いていなかったものですから、原発が爆発したことを知りませんでした。知らないままに高速道路に乗って、高速道路も穴だらけだったんですけど、行きました。途中、緊急消防援助隊は、この先へ行ってはいけない。なんで行ってはいけないのかわからなくて、高速道路を降りまして、事情を聞いたら、「爆発した」と。福島を通るってことは60キロ圏内を通ることになる、ということだったんですけど、私どもは、先に行っている援助隊がいるものですから、当然、交替で、5日間交替で行くんですけど、私どもが行かないと先着で行った援助隊と引継ぎができない。そのまま彼らを残すことになるということもあったもんですから、どうしても行かしてくれということで向かいました。私どもも若干は被爆しているのではないかと思います。

 

(会場・女性)

私は5月の20日、21日に安曇野の堀金の人が中心につくる「安曇野炊き出し支援隊」という方たちと一緒に石巻の万石浦中学校へ炊き出しに行ってまいりました。約200食を作ったんですが、お昼を出して、安曇野のお焼きを出して、夕飯で豚汁とご飯を炊いて3食出して帰ってきました。三郷でお店を経営していますが、たまたまうちへ来るお客さんの親友が石巻高校の教頭先生をされてまして、その先生の被災した手紙を読んで、「ああ、あそこの近くの石巻高校でもこんなに被害があったんだ」と。それと同時に、私の昔のお友達が福島県の南相馬市にいまして、彼女は原発で猪苗代湖のほうに避難していました。それで、なんとか私にできることはないかなと考えたんですけど、たまたまお店に来ている方の中で、「いっしょに歌で励ましに行こう」ということになって、さんざん考えました。炊き出しとか瓦礫の撤去とかは目に見える助けなんですけど、音楽で今この時期に行ってもいいものか、なんか自己満足の世界で終わってしまうんじゃないか、行っても認めてもらえるかしら、って。でも、勉強に行くって気持ちで行けばいいじゃない、ということになって、行くことにしました。まず石巻高校の避難所で歌ってきました。そこにいらした人は全部で12人しかいなかったんです。ちょうどこのくらいの部屋で歌わせていただいたんですけれど、私たちは20人で行ったんです。私たちの人数の方が多いんです。「ああ、やっぱり受け入れてくれなかったのか」と思ったんですけど、たまたまうちへくるお客さんの中で、美容師さんであり、マッサージ師をやる人が、一緒に行ってくださったんで、おじちゃんやおばちゃんたちの肩をもみ、髪を切ってあげて、そして、最後にすばらしい歌を一生懸命歌ってくれました。なんかそれが通じたようで、帰りには「私たち、こんないい歌を聞かせていただいたのに、なんにもできない」と言って、そこにいる人たちが、私たちがしてあげなきゃいけないのに、コーヒーをいれてくださる、そしてスイカを切って私たちにお礼を言ってくれました。そして最後にそこにいっぱいある物資を「余っているから、ぜひこれを持っていってください」と言って、着られない洋服だったんですけど、「私たちには若くてとても着られないから、知っている人にあげてください」と言って、私、お洋服を3枚いただきました。そして、マッサージをしてくれるおばちゃんには、マスクとかティッシュとか「いっぱい余っていて、これしかお礼ができないから、ぜひ持っていってください」と言って、逆に私たちが元気をもらって石巻からは帰ってきました。そして、福島へ行ってからも、レイクサイド観光という猪苗代湖の端のホテルに一泊したんですが、そちらの社長さんという方は気さくな方で、すごくすばらしい方で、「そんな安曇野から来ていただいたのに、お金は要らないからタダで泊まってください」「いえいえ、とてもそんなことはできません。普通のお金をぜひ払いますので」と言ったんですけど、結局、5000円しか払わなくて、その晩、みんなでドンちゃん騒ぎをした飲み物、お酒とかビールも社長さんの自己負担でいただきました。その夜は浪江町と南相馬の方たちがそこに避難されていて、一緒に食事を取って、一緒に歌を歌ってきました。そして、そこでも、別の部屋でマッサージをしたり、整髪をしたりして、本当にそこの社長さんが最初に行った時に私に言った言葉が、「石巻の人たちはもう帰る家がないから諦めもつくけど、ここにいらっしゃる方たちは家があって帰れないんだよ、それをぜひ思ってください」と言われて、思わず涙が出てきました。そして、理容師をやったお兄ちゃんが「3か月も床屋に行っていなくて、ほんとにさっぱりしてうれしかった」と言われたという話。それから、石巻の方ではマッサージをしたおばちゃんに「洗濯機の中でぐるぐる回っているような感じで、身体をさわられたくないと言われたんですが、徐々に心が和んで、やらせてもらいました」という話を聞きました。今度、11月6日に栄村に行こうという話になりました。私たちは音楽支援隊ということでやってきますけど、最初に石巻に炊き出しに行ったみなさんが、「ぜひ私たちも参加させてください」ということで、その人たちはお焼きを焼いたり、りんごジュースをお出しするということで、活動してきますので、がんばってきます。

 

(峰岸事務局長)

信州自由塾の仕事が忙しくて一緒に行けなかったんですが、11月6日、栄村のほうには一緒に行こうと思っています。実は向こうの問題じゃなくてこちらのほうとして、千葉さんのほうは三郷なんですが、そこが堀金地域と一緒になってやる。そして安曇野市全体で一緒になってやるという動きになってきています。今度は安曇野市社協のみなさんも栄村で出会ってみんなで音楽会をやるという形になっています。ですから、3.11のあの時期よりも経過の中で我々自身が結ばれたという印象を持っています。

松本) こういう場でいろんな人たちがつながることができれば、横のつながりとなって運動になってくると思います。もし栄村に一緒に行きたいという人がいましたら、事務局長の峰岸に声を掛けてください。

今、音楽の話が出たんですけど、人間の幸せとはなんだろうか、どういう時に人間は幸せを感じるんだろうか、未来をつくる文化、それはどういうものなんだろうか、その辺を話し合ってもらいたいという意見もあったんですが、どのようにお考えでしょうか。

根岸) きょう最後に歌おうと思っている「what a wonderful world」という曲が、3.11以降、すごいいい曲だなーとしみじみ思ってしまうんです。歌詞が、バラを見て、青い空と白い雲と静かな夜と明るい日と、なんて素敵で美しいんだろうと思います。福島の痛みを思い、元には戻れないことを覚悟しながら、考えて…。

3.11以降、筆が固まって書けなくなった作家がたくさんいらして…、いちばん辛いのが作家。私たちはできあがった台本があり、それを表現する立場なので、どこか間接的なんですけど、やっぱりダイレクトに書く方たちは、自分はこれから何を書いたらいいんだろうという問題がものすごく大きいみたいです。来年の初めにやる芝居もまだ台本がいただけなかったりするんですけど、筆が止まっているらしくて。そういう方たちがいっぱいいる。今まさに表現する側も試行錯誤しているところなんじゃないでしょうかね。

松本) きのうの朝日新聞では、いままでファンタジーとか、日常生活をテーマにしていた萩尾望都さんとか、そういった人たちが3.11自体をテーマにし始めている、そこから逃れるわけにはいかないということを語っていますね。池澤夏樹さんなども掘り下げて人間とはなにかということを問いかけている。おそらく、多くの作家やものをつくる人間たちは3.11という経験から、そこからもう一度思考を組み立てていかなければならないと思います。ワンダフルワールドの話が出ましたけれど、空を見たりとか花を見たりとか、そういう心の中に、人間の原点があるんだろうと感じるんですけど、未来をつくる文化とか、何が幸せかということに関しても、みなさんの中でご意見がある方はどうぞ。

松本)「子どもの話を聴くときは」という朗読が先ほどありましたけど、子どもを守る社会、守る政治、そういうものはどうやったらつくっていけるだろうか、子どもたちにとって何が必要なんだろうか、ということをみんなで語り合いたいというご意見もあったんですが、これについてはいかがでしょうか。これを書いた方がいらっしゃったら、ご意見を伺いたいと思うんですが。

 

(会場・男性)

朗読ありがとうございました。理屈じゃない言葉の力を感じました。私、娘がいるんですけど、娘を見ていて、「自分も子どもだったんだな」と思ったんです。私が親になって、この歳になって生きていられるのは親が育ててくれたからだ、ということを子どもを見ながら気づいたりしたんです。被爆の問題もそうなんですけど、みな、大人の人も昔は子どもだったわけで、その人も誰かに育てられたわけで、子どもを守れない社会であれば、もう世の中終わってしまう気がするんです。自分も子どもだったということ、赤ん坊だったということは誰かに育てられた、守られていたということです。それを忘れているんじゃないか。もっとちょっと言うと、みんな地球の子どもなんじゃないかなという気がして。原発の話も、自然破壊の話も、残留農薬の話も、人間が余計なことをしているなという気がしています。ちょっと取り留めのない話なんですけど、自分が命をもらっているということをもう一回考えたいなと思っています。

松本) 今のご意見に対して、このことは語りたいという方はいらっしゃいませんか。

 

(会場・男性)

安曇野三郷のマスダと言います。3.11以降、私は小さな宿屋をやっているんですけど、母子の疎開者がうちにたくさん来たんですね。3月の終わりぐらいに1組目の人が来て、夏の終わりぐらいまでに30組ぐらいの母子が来られました。福島の方たちもいらっしゃいましたけれども、多くは首都圏在住のママと小さな子どもたちでした。当時、民間も行政も罹災した東北地方の人たちへの支援というのはたくさんあったんだけども、東京で放射能に不安を感じていた方たちへの支援はほとんどなくて。ママたちはそれまでずっと部屋の中で子どもを囲って育てていた。安曇野に来て、おいしい空気と食べ物を食べて、子どもが庭で遊んでいるのを見て「久しぶりに子どもがかわいく見えた、思えた」と涙ながらに話をしてくれたのが印象的でした。そんなママたちが「私たちでも逃げていいのか」って言ったんですよ。建物が壊れて困っている人がたくさんいる中で、不安だということだけで来ていいのかって。放射能に対しての認識で、だんなさんとも温度差があったり。周りは普通に暮らしている人がたくさんいる中で、不安だってことが言えずに暮らしていて、ここに来て、そういうのがすべて解放されて、元気を取り戻して帰っていかれたり。中にはその後、こちらに移り住んできたママたちも、僕の知っている中で10組ぐらいいるんですね。きっかけは原発の事故なんですけれど、原発事故でやられっぱなしで終わってないで、これを機に、疎開とか避難して東京を離れるっていうんじゃなくて、もっと自分たちの新しい生き方を見つけて地方に移り住もうというママたちやファミリーがいっぱいいるんですね。そのママたちのメーリングリストがあって、僕も参加させてもらってるんですけど、移り住んできた隣のおばあちゃんが干し柿の作り方を教えてくれる、ということで集まったり、自分たちで小さなコミュニティーをつくりだして、新しい生き方を見出して生きていこうとしている。どんなに大変なことがあっても、やっぱり、子どもを思う母親っていうのが本当に強いんだなって思います。だんなさんは東京に残って働いているという人もけっこういるんですけど、ママたちは本当に強くて、福島から来たママたちなんかは、安曇野の安心な野菜を、移住できない地元の友達に送りたいといって野菜を届ける活動を始めたりとか。こんな風に言ってましたね、「国は大丈夫だ、大丈夫だ、って言うんだけれども、この国の大丈夫だ、は信用できない。だから自分たちでやれることはやっていく」

そういう前向きに、何があっても前向きに生きていこうとする強さというか生き方を、逆に、僕も学んでいます。何かそういうところに3.11後の生き方を求めれば希望の芽があるように思っています。

 

(会場・女性)

私は松本から来たんですが、外国人です。私は3.11のすぐ前にアメリカに行ったんですが、そこで、テレビとかでもものすごいニュースになっていて。人々も心配して、日本のことを助けようとして、町の中でもちっちゃい幼稚園生ぐらいの子どもたちが活動していたり、そんなのを見たんです。私は韓国人として主人と結婚して松本で10年くらい過ごしたんですが、日本という国がどれだけ世界の中で大事な国であるのか、この問題をどう解決しなければならないのか、アジアのリーダーとして、どういう風にこれをやるべきか、それをたくさん考えています。私はアメリカにいたとき、遠いところから、主人もいるし、子どもも日本にいるから、とてもつらくて…。この日本がどれだけ愛されている国であるのか、それを考えなければならないと思います。

松本) ありがとうございました。たぶん日本という国がこれからどうなっていくのか、これは世界中が注目していることだと思うんですね。子どもの文化をどうつくるか、原発に対して我々が、日本という国が、どう対応していくのか、それによってひょっとしたら地球自体が大きく動いていくぐらいの重要なことだと思います。

今、皆さんの中で少しずつ話が出始めて、もっと語りたいといことがたくさんあるのかしれませんが、残念ですが、時間の制限があります。最後に話を聞いていて根岸さんの感想を。

根岸) ちょっと気になったのは、ご主人との温度差ということ、「シングルマザーズ」で男性の立場と女性の生き方について考えました。今こういう時に、やっぱり男性は自分の仕事が第一で、それで、そこから動けないでいるとかといった問題って、ものすごく本当に怖いと思うんですよね。今は世間が大丈夫だ、と言っているという理由で動けないでいる家族。今聞いた勇気あるお母さんたちは、子どもを連れて移り住んで新しいことを始めようとする。こういう時は子どもを持っている母親がいちばん信用できるなって思うんです。子どもを守るためだったら何よりも、それを優先させるという、その気持ちをみんな一人ひとりが持たないと。自分の子どものように思って、そういう動けない子どもたちを動かさないと。そこがいくら故郷であっても、いてはいけないところかもしれないのだから。みんなが子どもたちを助ける気持ちにならなきゃいけないなと改めて思いました。皆さん、一緒にがんばりましょう。(拍手)

松本) では最後に、根岸さんの歌をお聞きしましょう。

 

[what a wonderful world](録画でお聴きください)

 

<閉会のことば>

(名誉塾長・中野和朗)

皆さん、長い間、本当にお疲れ様でした。根岸さん、松本さん、本当にありがとございました。なんか、とっても息のあったお話をしていただいて、楽しい時間というものはあっという間に過ぎるものだということをまた実感いたしました。3.11以降の生き方についてということでお話をしていただいたんですけど、3.11以後にいろんなものが変わりましたけど、大きく変わったものの一つに実は、それまでは踏んだり蹴ったりやられっぱなしで、じっと我慢の子をしていた草の根が日本中いたるところで動き始めた、ということです。そういう動きの中で、実は信州自由塾というのも誕生いたしました。そして、信州自由塾と同じようなこういう動きが身近なところでもたくさん起きています。草の根というのは動かないものの代表なんですけど、動かないものが動くということは、これは何か想定外の大変動、大変革が起こるということが予感させられるわけです。本当に何とかしたいと思う、この世の中を変えたいと思う私たちにとっては大変喜ばしい兆候だと思っています。ところがですね、気がかりなことがあるんです。実は、肝心の草の根の動きがそれほど元気がない。3.11以後、いろんなところで選挙がありましたけど、選挙の投票率が、3.11以前と少しも代わり映えがしない。これは草の根がしっかりと元気を出して動いていないことの現われだと思っているわけです。草の根があまりにも長い間じっと我慢を強いられていたので、動かない症候群にかかってしまい、かなり重い。これは「政治的ニヒリズム」と呼んでいいと思うんですけど、政治的ニヒリズムというのは実はファシズムの温床にもなるんです。ですから、なんとしてもこの草の根の重症のニヒリズムをまず何とか克服しなきゃいけない。実は、私たち自遊塾はこういうことを念頭に置きながら、これからも今回のような、これにさらに工夫を加えまして、会員とさまざまなアクティブな行動を起こしていきたいと思っています。どうぞみなさん、ニヒリズムを克服するために力を合わせて、草の根が大きな力になって時代の歯車を動かせるような、そういう風に一緒に力を合わせてやっていきたいと思います。そういうお願いをいたしまして、閉会のご挨拶といたします。みなさんありがとございました。

動画(YouTube)

※一部分を抽出したダイジェストです。

※ここに掲載した以外の映像を含むDVDを、ご希望の会員には実費(DVD代・コピーする手間賃・送料)で販売いたします。ご入り用の方はお問い合わせ下さい。

第1部 対談のオープニング:朗読 「この子たちの夏 1945・ヒロシマ ナガサキ 」から一部

 

第1部 対談開始~朗読「核・ヒバク・人間」(「非戦を選ぶ演劇人の会」のピースリーディング)一部

 

第1部 対談の途中一部

 

第1部 対談の終了前一部・朗読「こどもの話を聞くときは」

 

第2部 会場とのフリーセッションの冒頭: 質問用紙への回答 一部

 

第2部 会場とのフリーセッションの終了前:会場からの発言の一部・歌「What a wonderful world」・名誉会長終了のあいさつ


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