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〈リポート〉第38回講座「これからの教育の多様性について考えよう~外国由来の子どもたちの教育から~」

2021.11.13 | カテゴリー:講座の記録

【2021年9月25日(土) 松本市中央公民館】

 CTN(中信多文化共生ネットワーク)との共催で、本人や親が外国出身など、外国にルーツのある子どもたちの実態などを、子ども自身の体験談や実情を聴き、考える講座を行いました。会場に32人、オンラインで66人ほどが参加しました。

子どもたちの体験談

1人目:作文

私は日本で生まれました。3歳の時にブラジルへ行き、8歳の時に日本に帰りました。それから小学校4年生に入って日本語の勉強を始めました。そこでの勉強はとても難しいと思いました。

例えば作文です。小4のときは日本へ来たばっかりだったので、短い文章しか書けませんでした。でも小6の卒業文集を書くときは、先生に手伝ってもらいながら、2枚も書けました。

また、教科書やテストの漢字も難しいです。漢字が読めなかった時は優しい先生がふりがながついたプリントをくれました。そのプリントはとても役に立ちました。でも中学校では、自分で教科書にふりがなをつけなくてはいけません。読み方がわからない漢字が多いので、とても大変です。

日本の学校での生活も大変でした。小学校の先生達はとても優しかったです。だけどクラスの女子達は、みんなグループを作っていて、私はその中には入れませんでした。1人だけ4年生の時に話しかけてくれた女子がいました。私はとても嬉しかったです。その子とは5年生と6年生の時は、同じクラスではありませんでした。だけど中1になったら、また同じクラスになりました。これからも仲良くしていきたいです。

中学生になって、女子達がグループを作っていないので友達が作りやすいです。そのため、小学校よりも中学校の方が好きです。私の将来の夢は医者になることです。そのために勉強を頑張りたいです。ありがとうございました。

2人目:作文

私は日本で生まれて、3歳の時から日本にあるポルトガル語の学校に通いました。あんまり大きくない学校ですが、そこでたくさんの友達を作りました。その学校には小さい子供も高校生もいました。私のクラスでは入学した時に四人しかいませんでした。男子二人、女子二人、そして私だけでした。その学校は同い年の男子の家族のものでしたので最初は担任の先生はその子の母親でした。4年生ぐらいの時に担任が変わりました。その子の母親の姉でした。

5年生の時に松本市内の小学校に転入しました。日本語は全然わかりませんでした。ですが同じクラスにブラジル人がいました。男の子でした。最初のころはその子がすごく助けてくれました。ですが私は女の子なので他の女の子達と仲良くしたかったです。そのために誰にも頼らずに日本語を話さなくちゃいけませんでした。最初の一年間はがんばりましたが、なかなか友達を作れなかったです。ほとんどの時間は一人だったので、自由帳を学校に持っていって、休みの時間に絵を書きました。昔は絵を書くのが嫌いでしたが、学校で毎日書いていたので好きになりました。

6年生の時に友達ができました。まだ日本語はよく話せなかったので、その子と話をするのはとても難しかったです。ですがとても優しい子なので、わからないことを全部教えてくれました。その子の家がとても近かったのでほぼ毎日一緒に遊びました。その子も友達があまりいなかったので、いつも一緒に絵をかきました。

5年生の時も6年生の時も日本語が分からなかったせいで、係や委員会はよくできませんでした。できなかった教科もたくさんありました。社会や道徳は全然わかりませんでした。4月に卒業し、中学校に入学しました。その中学校は小学校よりとても大きく人もたくさんいました。教科も多いし、授業時間も5分多いです。小学校みたいにゆっくり勉強できませんでした。とても難しかったです。

私は美術部に入部しました。絵を書くのが好きだったので、美術部に入りました。美術部にはたくさん人がいます。そしてそこでは、みんなと仲良くしやすかったです。私と同じことが好きな人がたくさんいるからです。

中間テストと期末テストもあります。初めての中間テストの時にすごく心配しました。日本語が分からないので国語とか、いい点数を取れませんでした。それが少し悔しかったです。

夏休みに新聞を書かなければなりませんでした。地理新聞でした。わたしは新聞を作ったことはなかったので、どこからやればいいか、よく分かりませんでした。とても難しかったです。

2年間で日本語を話せるようになるのがとても難しかったです。まだ完璧に話せませんが、5年生の時と比べたらよく話せるようになりました。これからまだいろいろ学びたいです。そして日本人のような日本語を話したいです。私の話を聞いてくれてありがとうございました。

3人目:インタビュー

今何年生ですか。

中学校1年生です。

日本に来たのはいつですか。

3年前、だいたい9歳の時です。

日本の小学校の生活について教えてください。日本語の勉強はどうでしたか。

やさしい先生とやれて楽しかったです。

日本語の勉強は難しかったですか。

うん、ちょっと難しかったんで、なんか俺がクラスへ帰って、毎日習った日本語をいつも友達と会話の中で使えるようになっていて、早く日本語ができるようになりました。

クラスや友達との生活はどうでしたか。

みんな優しくて、俺はなんか、いつもみんなと遊んでいて楽しかったです。

クラスでの勉強はどうでしたか。

なんかそんなにうまくは(得意じゃ)ないけど、上手にできてよかったです。

特に難しい勉強はありましたか。

英語かな。俺は特に英語が難しいかなと思っていて、小学校はそんなに無理じゃなかったけど、中学に入ってちょっと難しいかなと思っています。

小学校で一番簡単だったとか楽しかった教科はありますか。

一番得意なのは数学だけど、簡単と言えば社会かな。みんな楽しくて特に歴史が好きなんです。

今年中学校に入学しましたが、何か大変なことありますか。

特に大変なことはありませんでした。

今一番楽しいことは何ですか。

なんか二時間目休みに小説を読むことかな。たくさんの小説。例えば面白いのとか。日本の小説は俺にはちょっと難しいかな。いつも中国の小説をよんでいます。

将来の夢はなんですか。

パティシエです。

どうしてなりたいと思いましたか。

なんか、俺はチョコレートとかケーキが好きで、大きくなって毎日俺が食べたいかなという夢があって。

将来のことで心配なことはありますか。

そんなにはないと思うけど、みんな優しくて先生も優しくて。高校生になったらあるかもしれないけど…。今はまだありません。

改善のための提言

発表時の資料(PDF 3.9MB)をご覧下さい。

感想

  • 知らなかったことが多かったので参加してよかったです。実際現場でかかわっている方のご苦労がよくわかりました。
    多文化共生ネットワークの方の提言、日本語教育センターの提言が少しでも松本市や県、国とすすめられたらいいと思います。子どもの権利条約が日本ではまだぜんぜん根づいていないので、それでも松本市はあるので、そういう意味でもタッグを組んですすめればいいと思います。オーストラリアのアボリアジの人のダンスなど、日本はアイヌ含めほとんど同化政策なので変えていかなくてはと思います。
    オリンピックの年にきけてよかったです。各地区でセンター、公民館でもっとこういうのを特に拠点校のある地区ですすめられないか?(松本市・60代)
  • 外国由来の子供達についての問題や解決に関する考え、支援活動等含め、世界を支える大勢の子供を育てるのは非常に重要なことと、国民的にも関心をもって、協力すべきことだということ、母国の子供、国籍問わず子供達のため自分できることが何かあるのか考えられるようになり、貴重な話しを聞くことができてとても良かったです。
    ニーズとサポートがよりマッチできるように子供達の実際の気持ち、生の声をヒアリングするのと、日常と学校に一緒に生活していく家族と友達等への共有と協力してもらうこと、教育のサポートと共に人間関係のサポートもしてあげることも重要とは感じました。(30代)
  • 「子どものときに海外で生活する経験するのは貴重な体験でモノの見方が広い大人になると思うが、中学校のころの大変だった話を聞くと、子どもには過酷な状況なのだと思いました。日本の社会が多様性を受け入れるシステムがまだまだ不十分ですが、いろんな人の力で少しずつでも良くなることを願っています」
  • 発表してくれた子どもたちへ
    日本語は難しい言語だと思いますが、日本語を学び始めて間もないという皆さんがしっかりとした日本語を話されていることに驚き、感動しました。今回、皆さんのお話を聞けたことは本当に貴重でしたしとても嬉しかったです。お話ししてくださったこと本当にありがとうございました。
    むずかしく大変な境遇であると思いますが、同時に貴重な経験でもあります。その経験を良い形で人生に生かしていかれるといいですね。困った時、助けてくれる人は意外といるかもしれません。ぜひ周りに助けを求めてみてください。(松本市・60代)
  • 子供達の体験談をお聞きし、両国の文化、伝統、家族の問題、勉強に追いつけないことやいじめられたこと等の大変さの共感と自分なりに頑張っている努力さにも感動しました。同時に、政治問題で大変な状況になっている母国ミャンマーでの子供達、特に貧困層での子供や難民キャンプ、民族での子供達のことも考えてしまって、涙が出ました。(30代)

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