【2024年3月26日 松本市中央公民館Mウィング会議室 参加者80名】
「人間はどこまで家畜か」という書籍の著者で、今TV等のメディアで全国的に注目されている精神科医、熊代亨さんに、「家畜化」の意味と、自遊塾のテーマでもある「現代社会をどう生きるか」などを、わかりやすく語って頂きました。 約80名の多くの方にご参加頂き、その後信濃毎日新聞などでも記事として大きく取り上げられました。
熊代 亨さんは1975年生まれで信州大学出身で長野県内で精神科医として勤務されています。その傍ら、社会に目を向け、書籍『人間はどこまで家畜か』、『「推し」で心はみたされる?』、この秋に『ないものとされた世代のわたしたち』を出版されている他、ブログ「シロクマの屑籠」でも現代人の生き方などについて発信されています。
文化的な自己家畜化以前、近代以前の人間は、野蛮・攻撃的・不潔で、「決闘」などもよく行われ、子どもは大切にされませんでした。それに比べると、家畜化は良い点も多い。 反面、資本主義の発達により、現代人は、コスパ・タイパ(コスト・タイムパフォーマンス)の奴隷になっているとも言える。特に、子育てはコスパ・タイパが悪いために敬遠されやすく、少子化の一因でもある。 社会契約(法の支配)や、個人主義が重視され、職場も学校も「ブラック」→「ホワイト」になってきたが、すべてのヒトが急に「ホワイト」になれるわけではない。なれない方が増えたために「生きづらさ」や精神医療に頼る人が増加している。
これらの未来をグロテスクと思うなら、すでに現在がグロテスクと言えないでしょうか。
人類の「進歩」は拒否できず、必然です。安全・安心、より効率的、より平等な人間の未来は好ましく思えます。 しかし、それは、食べる物に困らないブロイラーの鶏のようにも感じられます。「自由」な生き方、幸せな社会と言えるでしょうか? また、 急速な進歩についていけない人にも思いを巡らせて欲しいです。 カント「人間はそれ自体が目的であるべきで、手段であるべきではない。」──この言葉は、人間が本当に家畜同様に管理されていく未来においても、きちんと言えることでしょうか。
第2部では会場を後方へ移し、熊代さんを囲んで参加者が質問する形でフリーディスカッションを行いました。主なテーマを
と設定しました。会場からは多くの質問があり、活発なディスカッションとなりました。
松本猛(司会):家畜化のメリットとしては、安全にみんなで暮らせること、文化流通グローバルグローバリゼーション、都市に集まって快適に暮らせることなどがあると思う。
熊代:家畜化し従順になることは悪いことだけではなく良いところもある。家畜化したおかげで我々はここまで来たとも言える。しかし、副作用としてのデメリットにも目を向けていただきたいなぁというのが本を書いた趣旨である。
発達障がいの診断を受けた子供2人がいるが、子供に対する学校の配慮が足りないと感じている。周囲と同じ行動を強要されることがつらく、不登校になっている。これは家畜化の影響ではないか。
資本主義の中での生きづらさがデメリットなのではないか。資本主義に絡めとられない方法を聞きたい。
家畜化する中で兵士たちは命をかけて人を殺す。一方で家畜化してる中でそのお互いに争わずに優しくなっていくその両者の関係とどのように考えたらいいか。
熊代:発達障がいの方が生きにくいとの話は、学校以外の場、例えば職場でも起こっている。このような問題が無かった100年前にタイムマシンで戻れたとしても、そこには別の生きづらさがあった。怒鳴ってる上司がいる。仕事しないで新聞読んでタバコ吸ってる窓際族と呼ばれる人がいる。生産性は今より低かったと思う。暴力的なことがもっと起こってた。昔と何が変わったのかというと、生きづらい人と困ってしまう人の種類が変わった。今は発達障がいの人が行きづらさを真正面から受けるようになった。それに対しては精神医療が援助するとか特別支援とか個別に対応する制度設計ができていると思う。
普通に勤務していていた人がうつ病と診断され、障害者雇用にスライドしてくる。そうすると障害が重い人の雇用の枠が減っていってしまう現実がある。どう生きていけばいいかと考えてしまう。
熊代:今働けない人に対しては障がい年金制度がある。全ての人が自身のペースや特性に合わせた形で働けることが理想であり、本当の意味でのダイバーシティだが、現行制度では障がい者雇用になっている。一方で資本主義は障がい者も稼げる社員にしようという動きを引き起こす面もある。資本主義には我々の生活に分け入り、飲み込んでいく固有の運動があるように思う。 例えば、昔は結婚や葬式は地域共同体が計らうものだった。今はゼクシイがその結婚を資本主義に取り込んでいる。お葬式も葬祭センターがやり、資本主義の内側に移動したと思う。障がいを持った方をその資本主義のお金の循環に組み込むかという問題と資本主義が色々なものを取り込む動きの問題はとても複雑であり、現在の私は上手く説明できない。
資本主義の観点で障がい者雇用を考えると、それは家畜化というより人間の労働力としての製品化である。そこから逸脱した部分が発達障がいでやうつ病と診断される。 また、他者との比較のなかで、自分は他の人よりも劣っているのではと不安に陥る構造があり、そこからもうつ状態が発生する。 労働市場はコストパフォーマンスにあった労働力を望んでおり、合わない人を障がい者雇用する。人間をA級、B級と製品化し、B級品はダンピングされる構造が発生している。他者との比較が判断の中心になると、個人が埋没していく。
熊代:キリスト教と資本主義は密接な関係があり、資本主義の中にキリスト教が投影された部分があると思う。西洋では、プロテスタントの人たちが聖書を読むところからインディビデュアル(個人)が生まれ、キリスト教の考え方と結合しながらアメリカのような資本主義を作っていった。キリスト教信者は個人主義をきちんと持っており資本主義にのまれている感を感じない。 資本主義は大事と思っているが、その一方で個人主義やそれ以外の考え方も大事にしており、日本人と比べると資本主義の家畜にはなっていないと思う。 落合えみ子が言っていたが、資本主義が入ってくるスピードに日欧で差があった。欧米社会では資本主義が入ってくるスピードが比較的ゆっくりだったが、日本は高度経済成長があるまでは発展途上国で、資本主義に対して免疫が無かった。
適応できない人たちをどうしようかではなく、なぜ適応しなきゃいけないのかと一人ひとりが考えることで多様な生き方っていうのができていくと思うがどうか。
熊代:社会全体をどうすべきか。自己選択しやすい、適応しなくてもいい、引きこもっていてもいい、その人らしく生きられるような社会にしていけばいいと思う。一人ひとりが考え方を変えるだけではシステムは変わらないから、相当の運動が必要だと思う。気がつけば資本主義に囚われて、欧米人ほどは上手く付き合えない状況にあるとしたら、我々にとって気持ちいい、都合のいい資本主義とは何なんだろうと考えることが必要だと思う。
熊代さんが考える、「人間に優しい社会」とはどのような状態なのか。
熊代:今も世界各地で戦争をやっており、社会の優しくない部分が露出している。個人の次元では道端にある石をちょっとのけて走りやすくするぐらいのことしかできないかもしれない。それぞれ理想、胸にある良かれと思うことをそれぞれの持ち場でやっていくことが大事だと思う。我々の先人は、後世の人々に良かれと思って社会を変革してきたと思う。私は先人のことをまずは信頼したいし、我々もそうでありたいとも思う。私にできる精一杯は皆さんとお話しすることだったり精神医学を経由して別の人にバトンを渡すことだと思う。
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