【2021年7月18日(日) 松本市中央公民館】
新型コロナウイルス感染者への偏見以外にも、「LGBTQ」「ジェンダー」「障がい者」「在日外国人」など多様な”差別”が存在している今、総合的な「差別」について考えを深めようと企画しました。会場に39人、オンラインで30人ほどが参加しました。
差別をテーマにした記事のほか、『差別とハンセン病』という著書もある信濃毎日新聞記者の畑谷史代さん、
教育現場で差別を無くす数々の取り組みをされている教員の清水稔さん、
東京都立中部総合精神保健福祉センターなどで心理職として勤務し、大学で精神保健学、障害児教育論を教える藤本豊さん にそれぞれお話しいただきました。
これまで主には高齢者・福祉、戦争体験、シベリヤ抑留などの取材をしてきたが、自分の柱となっているのはハンセン病問題。 長野県の人権政策推進の基本方針の課題として、同和問題、外国人の、女性、子ども、高齢者、障がい者、HIV 感染者・ハンセン病元患者、犯罪被害者、中国帰国者等、さまざまな人権課題、インターネットによる人権侵害が挙がっている。多様になっているが、時代とともに課題は変わっていく。ハンセン病については、20年前にハンセン病の問題がメディアなどで大きく取り上げられるまで、人権課題の一つに含まれていなかった。2020年の秋、信濃毎日新聞で新型コロナと差別の問題をハンセン病問題から考えるという連載を行った。
新型コロナはウイルスで、ハンセン病はらい菌という細菌が原因。また時代・歴史的背景も異なるので、一緒に考えるのは問題があるが、そういった前提を差し引いても、公衆衛生の中で人権をどう守るのかという問題、新型コロナに感染した人やその家族が誹謗中傷を受けたという事例、医療従事者への差別など、人権侵害の現れ方が似ていると思ったことがきっかけだった。
ハンセン病は国の隔離政策で差別が根深く形成されたが、この間その政策が間違っていたことなどが裁判などでも証明され、啓発事業もあったので、社会の理解は進んだと思っていた。しかし、新型コロナの感染者に対する誹謗中傷、家族離散の危機・・・この令和の時代に、表に出てこない問題が起きているという状態はやはりハンセン病問題と似ている。
人権侵害という問題が起こった時は、まずその被害者の救済に目がいく。世の中で起きている問題に目を向けるということは、自分はどうなのか、私はどこに立っていて何をするのか、ということを考え続けることから始まると思う。
人間の作る社会は差別を生み出してしまうし、差別する側、される側に容易になりうる。人権保護の積極的な仕組みを作る必要があるが、制度でなくてもできることはある。知事や自治体のトップなどの社会的責任のある人が、新型コロナ患者への誹謗中傷、差別を許さない、というようなメッセージを発することでも社会の雰囲気は変わるのではないか。
ハンセン病患者の中には過酷な差別を受け、戸籍を抜いたり名前を変えたり、亡くなってからも本名を明かさない人もいる。 もっとも被害を受けた人が差別を避けられないと、差別を容認してしまう。新型コロナに罹患した時、家族が罹患した時、それを安心して周囲に言えるのか・・・ハンセン病の時と同じような状況になってはいないか・・・打開できるためのアクションを起こしていきたい。
38年間教員をやってきた。教員になって初めて担任をした時に、いじめ被害に遭っている女子がいたが、解決できずに卒業させたことや、教員をやりながら様々な思いをもつ中で、同和教育に出会い、自分にも何かできるのではないかと、同和教育に取り組んできた。いじめについて考えるワークショップをしたり、ハンセン病問題、副読本あけぼのなどを使ったりして子どもたちと学習をしている。
2001年の熊本地裁の判決があり、ハンセン病問題が大きく報じられる中、ハンセン病患者であった伊波敏男さんを学校に招き話をしていただく機会を作った。伊波さんの差別に立ち向かう生き方を聞き、人間の尊厳を取り戻した人の生き方は子どもたちにも強い印象を与えた。また、長野県出身者のハンセン病患者、西沢さんとの手紙の交流も行い、やりとりした手紙は1年間で18通にも及んだ。
子どもたちは、学習して得たハンセン病への知識、差別の不当性とそれを乗り越えていった伊波さんの生き方や、療養所で過ごした人たちの思いを家族や地域へHPなどで発信する活動を行った。そういった中で発信する自分たちが身近な友達を差別していないか、という矛盾に子どもたちは向き合わざるを得なくなったし、一人一人を大切にしている教師なのかと、自分自身にも問いかけた。
長野県出身のハンセン病患者の西沢さんがいた岡山県にある長島愛生園へ行ったが、長島は近いところで本州から30メートルしか離れていない。本州とつなぐ邑久長島大橋は「人間回復の橋」と言われている。人間回復の意味は「尊厳の回復」であり、私たちの「人間性の回復」の意味もある。
ハンセン病をめぐる差別の構造は、国がらい予防法を作ったこと(加害)、県が無らい県運動をしたこと(加害)、それに同調した国民(同調者)、関心を持ちながらも何もできなかった国民(傍観者)がいた・・・傍観者は差別をなくせる鍵を握る当事者であったのに、アクションを起こさなかった。ハンセン病問題と新型コロナの問題を簡単に比較することは問題があるが、差別する側の意識は同じなのではないか。新型コロナに感染したのは自己責任、感染した人を排除する、自分は感染しない、自分たちの行動は正しい、といったハンセン病問題と同じ構図が新型コロナの問題でも見られる。
長野県の大鹿中学校生徒会では、自分たちがより良い社会を作る当事者である、という意識を持って人権学習を積み重ねている。新型コロナウィルス感染者や家族への差別について考え合い、「10の宣言」にまとめている。差別する心に気付き、弱い自分と戦うことが必要、という感想が子どもたちから出た。こういった子どもたちの姿に学びたいと思う。
臨床心理の現場で長く働いている。心理学はなぜ人はその行動を起こすのか、ということを考える学問。 差別は私たちの中から、社会の中からやってきている。残念だが、差別がなくなることはない。
「私たちとは違う人」というのが排除。その代表が「精神障がい者」。残虐な事件が起こったときに精神鑑定をして、普通の人がしない事件は精神障がい者特有の事件だ、という構造を作り、「私たち」とは違う、として安心する。LGBTQに対しては、「なぜ親からもらった体に性転換するのか、同性が好きなのかがわからない」。外国人に対して事件の報道があると、やはり〇〇人だから、と納得しようとする。女性に対しては、男性のようにできないのは男性と違う女性の発想があるからだ、と排除する。こういったマイノリティや弱い立場の人たちに対して差別が行われているのではないか。
「私たち」とは、ある集団に属している人の主観による「共通項」、その集団での合意によって成り立つ「共有される考え」で括る。「違う人」への排除は、自分たちの存在が脅かされる時に排除する構造が出てくる。コロナによって普段の生活がなくなる、移民が仕事を奪うから移民から私たちの仕事を守らなければ、というように、「私たち」の存在が脅かされると、「私たち」のアイデンティティを確保するために、スローガンを掲げ、相手より優位になろうとして相手を卑しめる、自分を守るために悪者を作り出す、悪者を排除するために結束化し、自分たちの行動を正当化する、という悪循環に陥る。そしてその悪循環に「私たち」が気づかない。
個人的差別は生活にゆとりがなく不満がある時、社会による差別は市民の多くが不満を抱えているときに起こる。政治の役目として満足した生活を送ること、安心して暮らせる社会を作ることが必要。マスメディアの役割として、差別があることを知らせること、そして教育の役割として差別をなく方法、差別されている人のことを考える想像力を育むことが必要。
そして一人ひとりができることは、誰でも差別することがあることを自覚すること。差別したことに気がつくことでも次の差別は止まる。思い込みなどにより、気が付かず差別していることを知る。差別についての話を友だちとすることなどで、考えていくことが大切。
第1部で話をしてくださった3人の専門家と会場やリモート参加者との質疑応答。コーディネーターは塾長の松本猛で進められました(敬称略)
藤本さんのお話の中に「差別を受けた人から相談されたとき」の話があったが、「差別をした人」への対応はどうしたらいいか?
藤本:差別をしてしまったことを人に話すこと自体、勇気がいること。「よく話をしてくださいましたね、差別をしてしまったことを思い出したこと自体、大変でしたよね」という声掛けがあるといいのでは。自分が相談をする側だったら?と自分に置き換えて考えて言葉をかけ、孤立させない、“一緒に考えていきましょう”という姿勢が大切。
清水:学校では、子どもが自らのいじめを認めでも親は「そんなふうに育てた覚えはない」と認めないことがある。どんな子どものなかにもいじめや差別の心はある。それとしっかり向き合って、相手の気持ちを考え、どう乗り越え成長していくかが、人間が生きていくことではないか。
水面下でどのようなコロナ差別が起きているか実態を知りたいが、報道の現場ではどの程度具体的事例を把握しているのか?実名で語れない背景は?
畑谷:新聞に載ったなかでは、石を投げられたり、ブロックを投げ込まれたり、心無い噂を流されたりということがあった。一家離散したり、精神科に通ったりという打撃受ける場合も。 一線の記者によると、コロナ感染に関する取材の場合、会いに行っても、会えるか?話してもらえるか?書けるか?とても難しいのが現状。記事になるのは氷山の一角。本当に苦しんでいる人たちは、ほとんどしゃべらないし、コンタクトすら難しい。起きているが表に出てこない。 移ったら大変だという恐怖がいろんな意味で増幅されて社会的に抹殺されかねないぐらいの圧になっている。「新型コロナが怖いのではなく社会が怖い」という声もある。遺族が社会的差別を受ける可能性を恐れて発表を望まない。
松本:現在公表されているのは数字だけ。数字だけでは実態がない。マスメディアや行政は、コロナ感染やそれによる死亡は悪ではないことをアピールできるといいが。
清水:「学校内では、感染から戻った子どもも“おかえり”と受け入れることができていても、広く一般への公表は、社会の中の認識深まってこないとできないのが現状。
藤本:日本社会全体の問題ではないか。行政が市民を差別から保護するためにきちっとした情報提供を行っていない。本来であれば的確な情報伝えることが行政の正しい姿勢。コロナ感染においても、感染ルートや、どうすれば感染しないか、など具体的で的確な情報を伝えることによってむやみに恐れることもなくなり、差別は少なくなるのではないか。
松本:日本はきちっと情報公開しないことが問題となっているが、本来の民主主義はしっかり情報公開したうえで考えていくものではないか。
家の格式による社会制度のある山間地域で育ち、格式のある家がすべてを仕切るという風習に疑問を感じながらも続けてきた。それは差別を容認してきたことになるのか?
藤本:質問者は「それではいけないのでは?」と思っているのではないか。まずそこからの出発。これからどうしていったら自分の世代なりのものがつくれるか、一つずつできるところからやっていく、変えていくしかない。
松本:社会のしがらみは結構強い。風習、文化、祭りなど、過去の伝統を背負ってきているなかで生きていくには長く継続してきたものを断ち切るわけにはいかないこともあるが、人間の個の問題と文化の継承は分けて考えなければいけないのではないか。
世界的にみても日本の女性の人権が低い現実があるが、多くの人は男女差別を感じずに日常を暮らしている。私たちの人権意識のレベルの低さを自覚するためにはどうしたらいいか?
畑谷:法律の建付け、家父長制、明治以降近代の制度と空気によってジェンダー平等131位になってしまっている。外では立派に人権の取り組みをしていても、家庭に帰れば家事は女性に任せているなどの矛盾、非正規の大部分を女性が担っている、賃金はどうなのか?そこから変えていく。企業のトップや議員を増やすことも大事だが、指標だけでなく日常の自分の身の回りの行動から変えていくことが大事なのではないか。
清水:ジェンダー平等の世界は男性にとっても生きやすい世の中。性別によって不利益のない世界は多様性が発揮されて豊かで活力のある社会になる。そういう視点で教育現場でも教えていってもらえれば。
危機状況では社会が固執化するということをもう少し詳しく説明してほしい。
藤本:戦争もそうだが、危機的な状況になると、「ねばならない」が強くなって、「正しい在り方」だと信じる以外のものを受け入れなくなってしまう。一つのことに執着していくことによって守られている、正しい行いをしているという状況がいろんなところで作られていく。
(記録:事務局 松本 照喜・牛山 佐和)